バイオグラフィー

幼少期

1967年(昭和42年)1月2日、父・牛嶋道夫、母・泰子の次男として山形県山形市に生まれる。
6歳違い(学年では5学年)の兄・英明がいるが、”俊明”という名前は、
『(兄の通っている)幼稚園に、”としあき”という強い子がいる!』という兄の提案だったとか。

生まれて数ヶ月してから父親の転勤で秋田市に。
隣に暮らす祖父母(父の両親)の家に、毎朝遊びに行っていた記憶がある。
『今日、まだ、顔を洗ってねーべ?』と祖母にいつも言われ、
『なんで分かるのか?』といつも疑問を持っていたっけ。
祖父母ともに厳しい人だったらしいが、厳しかった思い出は全くない。
むしろ、とても優しいおじいちゃん、おばあちゃんで、それは母方の祖父母も同じ。
4人ともに他界してしまったが、今でも思い出すほどみんな優しかった。
もちろん両親の愛も感じるが、本当に素敵な家族の元で育ったと思っている。
ちなみに変な話だが、牛嶋の守護霊は父方の祖父のような気がする。

子供の頃は兄の後姿ばかりを追いかけていたような気がする。
5学年も違うせいか、手本は全て兄だった。
野球を始めたのも兄の影響で、兄に好かれようと、いつも言う事をしっかり聴いていたような・・・。
当時は兄の目を相当意識していたかもしれない。
父はとても優しく、怒られた記憶がない。一方、母親は厳しく、たくさん叱られた気がする。
しかし、今思うと全て愛情だったと感じる。
とにかく、家族3人には深く感謝しているし、未だに頭が上がらない存在かもしれない。

1971年(昭和46年)、幼稚園は、山形市の竹田幼稚園に入園。
近所だったので徒歩で通っていたが、バスで通っている友達がカッコ良くて羨ましかった。
この頃から気の弱い子供だった。幼稚園でお漏らしをした事を鮮明に覚えているが、
『先生、トイレに行かせてください』とも言えないくらい気弱な子供であった。
女の子に泣かされた事、まだ帰る時間ではないのに幼稚園から家に走って帰った記憶もある。
とにかく気の弱い子供だった。
母親は、『この子は将来、どんな大人になるのだろう』と心配したに違いない。

幼少期

1973年(昭和48年)、小学校に入学直前に山形県米沢市へ。
これも保険会社に勤めていた父の仕事の都合だが、小学校入学直前だったので、運良く転校は免れた。

ちなみに兄は幼稚園、小学校といずれも転校を経験して、とても嫌な思いをしたらしい。

幼少期

小学校は、米沢市立北部小学校に入学。1年3組だったと思う。担任は境イセ先生。
幼稚園からそのまま小学校に入る人が多く、周りに誰も知っている人がいない中での入学は
非常に心細かった。
何かあるとすぐに泣いていたような気がする。

その後、普通の小学校生活を送った。
幼少の頃から兄と野球をやっていたので、人より野球がうまく、
学校の野球チームではいつもリーダーだった。
でも、友達に平気で『ヘタクソ』と言う子供だったので、
嫌われて一時期メンバーからはずされた事も・・・。これは辛かった。

それでも気の弱さは相変わらず。
授業中、先生に『これ分かる人は手をあげて?』と言われても、手が上げられなかった。
『牛嶋くん、教科書読んで』と当てられたら、緊張して読めなくなる事もあった。
それでも我慢して読むと、『アナウンサーみたいだね』と言われ、
教科書を読むのだけは自信があったかな?

その頃、テレビの相撲中継に夢中になり、相撲の本場所が行われている時は早く家に帰り、
相撲中継を見ていたっけ。
相撲を鋭く分析する解説者がカッコ良く、母に『将来は相撲の解説者になる』と言ったが、
『解説の人は元相撲取りだから、相撲をした人じゃないとなれない』と言われ断念。
一方で、相撲を実況するアナウンサーへと憧れがシフトしていた。

1977年(昭和52年)、小学校5年生になると誰もが委員会に入るが、迷わず”放送委員”を希望。
しかし、競争率が激しく、クジ引きで敗れて放送委員になれなかった。
空いていたのが、誰もが希望しない給食委員。
いつも希望通りにならない事に、『自分には運がない』といつも思っていた。

幼少期

幼少期

1978年(昭和53年)、6年生になり、今度こそはと再び放送委員を希望。
今度は運良く放送委員になれ、校内のテレビ放送を週に1度担当する事に。
放送委員会には、『すげー!』と思った存在の男がいた。
音楽を紹介する番組を作り、自らを『DJ』と称して放送していた佐々木健一(敬省略)であった。
彼は頭も良く、絵も天才的に描き、ピアノも弾けて、自分にないものをいっぱい持っている男であった。
クラスは違ったが、そんな彼をある意味ライバル視、いや、憧れていたのかもしれない。
それが今では大親友になっているとは!人生とは面白いものである。

※左下の画像は久しぶりに母校を訪れた際に撮影したものです。

幼少期

そして、今の仕事に結びつく素敵な出来事が・・・。
機器の故障か?はっきり覚えていないが、一時期テレビ放送ではなく、
ラジオ放送をしなければならない事があった。
その際は本を朗読するなどの措置が取られたが、動物がいっぱい出てくる本を朗読した際、
動物の鳴き声などをちょっと大袈裟に朗読した事があった。ココココ・・・コケコッコー!など、
『ちょっとふざけて読んでいるかな?』と思うくらいであった。
そして放送終了後、『校長室に来なさい』と連絡が・・・。
『あー!やっぱりふざけていたよなぁ~。校長先生に怒られる!』
そう思って不安を抱えながら校長室に入ると、校長先生はニッコリ笑い、
『君がさっき朗読した牛嶋くんか。今日の朗読はとても素晴らしかった』と一言。
それにはびっくりし、『簿褒美にバッジをあげる』と、”文化賞”なるバッジをつけてくださった。
校長室を出た際、『やったー!』と両手を上げてクラスに戻ったのを今でも鮮明に覚えている。
この出来事が、今のアナウンサーという仕事に結びついたと思っている。
校長先生の名前は水無瀬正一先生。
のちに米沢を訪れ、そのエピソードを母校で語ったら、ご丁寧に手紙を頂いた。
『あの時の事が今につながっているのならば、教師冥利に尽きます』と書かれた手紙は
今でも大切にとってある。
褒めて伸ばすとはまさにこの事で、水無瀬先生には深く感謝したい。

6年生から”野球少年団”に入った。ポジションはサード。
打順は2番だったり、9番だったり。チームの中でも野球は上手かった方だと思う。
前年の先輩たちが県大会で優勝していたので、我々の代も県大会優勝を期待されたが、
なんと!1回戦負け。翌年は後輩が県大会で優勝し、我々の代だけが
『ダメな学年』と言われたのを強烈に覚えている。

中学校時代

中学校時代

1979年(昭和54年)、中学校は米沢市立第四中学校に入学。
徒歩で約20分の場所にあり、凄く遠い学校だったというのが記憶に残っている。
ここで直面したのは学業だ。小学校時のレベルとは程遠い内容に戸惑い、
1年生最初のテストの成績は”上・中・下”のうち、”下”であった。
自分も驚いたが、両親はもっと驚いたようだ。
その頃思ったのは、兄は進学校に進んだのに、とても進学校に行ける成績ではなかった自分。
なぜだろう?なぜだろう?そればかり考えていたのかもしれない。
今後を心配した母親から勉強を教えてもらい、驚異的に数字がUPし、
1学期の期末テストではなんとか”中”に。それでも”上”に行く事はなかった。
それだけ勉強は難しかった。
というより、成績を上げるための勉強方法、理解しようとする気持ちが足りなかったように思う。
勉強していたのではなく、勉強していたつもりだったのだ。
出来れば中学校時に戻って、勉強し直したいといつも思う。

中学校時代

性格はとにかく悪かった。
喧嘩はしょっちゅうで、仲間はずしもしたし、仲間はずれにされた事もあった。
気が弱い裏返しなのか?変に強がり、クラスの仲間が一体となる校内合唱コンクールの練習では、
『やってらんねーよ』とふざけて、先生にビンタを食らう場面も。
今思うと、虚勢を相当張っていたんだろうなぁ~と思う。

部活は野球部に入部。野球少年団で優勝した1年上の先輩達はさすがに強かった。
特にエースだった先輩は県内の強豪校からも誘いを受けるほどの逸材だった。
2年生からレギュラーに!と思ったが、とてもとても・・・。
3年になって初めてレギュラーになれたが、1~2年時はとてもレベルが高かったと記憶している。

中学校1年の時の担任は佐藤喜一先生。
美術の担当で、年は当時32歳くらいだったかな?
毎日のように学級通信を書く情熱あふれる先生だった。

1980年(昭和55年)、中学2年になる際にクラス替えがあった。
担任は引き続き佐藤喜一先生。良い先生だったのでラッキーだった。
クラスの仲間はこれまで同じクラスになった事のない人ばかり。
ほぼ半数がそうだったのでは?

中学校時代

この2年3組は非常に良いクラスだった。とにかく良いヤツばかり。
もちろん、これまでも良いヤツが多かったのだろうが、
”良いヤツ”という仲間の存在を意識したのはこの時が初めてだったのかもしれない。
これまではいろいろクラスの仲間と喧嘩をした。
『嫌い』と言われ、『俺もお前の事、嫌いだもん』なんて言った事もあった。
でも、そんな事を言っていたら俺はこの先やっていけない!
そう思ったのもこの時期で、そのきっかけは春に転校してきた”藤岡倫夫”と出会ったのが一番大きかった。
藤岡は偶然にも隣の席になり、転校時にまだ間に合っていない教科書を一緒に見て授業を受けた。
隣の席なのでいろんな話をするようになったが、この”藤岡”はメチャメチャ良いヤツだった。
こんなに気持ちの良いヤツがいるのか?!と思える存在で、
この時初めて『”良い人”っていいなぁ~』と思った。
同時に、俺も”良い人”と言われる存在にならなければ・・・と思った。
この時、友達をむやみに傷つけていないか?優しさはあるか?と
生まれて初めて自問自答したのかもしれない。
そんな藤岡だからこそ、みんなに好かれていた。

中学校時代

しかし、そんな藤岡は3年生を迎える間もなく転校していってしまった。
お父さんの仕事の関係で、お別れ会の時はクラスのみんなが涙して別れを惜しんだ。
こんなに別れが悲しいと思ったのは初めてだった。
今、残念ながら藤岡の行方は分からないが、あのまま学校に残っていたら
間違いなく大親友になっていただろう。
『藤岡は今何しているだろう?』。今でもクラス会で出る話題だ。
1年も学校にいなかったのに、それほどまでの存在感を持った藤岡。
もう一度会いたいなぁ~と思う人のひとりである。
藤岡という存在のお陰でみんなと仲良くする事が出来た。
自分に対する”嫌なヤツ”という印象も、
このクラスにいる事で徐々に解消されていったのではないかと思う。

中学校時代

中学2年の時の校内合唱コンクールでは、なんと!指揮者に選ばれた。
なぜ選ばれたのか鮮明に記憶はしていないが、佐々木健一の推薦だったと思う。
なぜ、彼が推薦してくれたのかは分からないが、
いつもクラスの学級委員を務めていた佐々木に薦められたのは嬉しかった。
中学1年生の時は、ふざけて練習もろくにしなかったので、
『俺なんかいいのかなぁ~?』と思いながらも了承。
思えば、これまで人に推薦される事なんかなかったので、
この時、初めて“人に選ばれる喜び”を知ったのかもしれない。

合唱コンクールでは学年で最優秀賞を獲得。
選んだ曲は、『はだか馬に風が吹いた』(作詞:名取和彦 作曲:市川都志春)。
ピアノ演奏は堀江祐(敬省略)。彼女の力強い演奏は素晴らしかった。
もちろん、みんなの心のこもったハーモニーも…。
指揮者を努めた事で、今後の自分の自信につながったのは言うまでもない。
学年で最優秀を受賞したので、学年で歌う曲にもなった。これは嬉しかった。
ちなみに翌年も最優秀賞を受賞。曲は『海の若者』だった。
合唱コンクールは中学生時代の最も印象に残る出来事だった。
みんなでひとつも目標に向かって頑張り、その目標を手中に出来た事。
この思い出は今でも大きな財産である。

さて、野球部の話に戻る。
中学2年時の新人戦では米沢1中に1回戦負けし、『弱いチーム』と言われながらも
監督の大河原真樹先生の指導の元、見違えるように実力をつけていった。
もちろん、目標は置賜地区大会優勝。3年生時の初戦ではコールド発進。
準決勝では秋の優勝校で、今大会も優勝候補の筆頭であった米沢市立第5中学校と対戦。
初回から相手投手を攻略し、また、相手のミスもあってリード。
しかし、あと1人押さえれば勝利!というところで、逆転サヨナラホームランを許して敗退。
勝てた試合だけに、この敗戦は非常に悔しかった。
その後、5中は置賜大会を勝ち進み、県大会でも優勝。
『弱いチーム』と言われたが、県大会で優勝したチームにあと一歩で敗れた事は自信につながった。

3年3組の教室は1階にあった。
米沢は全国でも有数の豪雪地帯で、冬は当然の如くたくさん雪が降ったが、
3年時に教室から見た外の雪は寂しく見えた。
冬=もうすぐ卒業である。仲間と別れる事を考えると、悲しくて仕方がなかった。
それだけ良いクラスだったと思う。何かあるとすぐに話し合った。
『このクラスの女子の雰囲気は最低!』などと先生に言われ、『どこにその原因があるのか?』など
何度も何度も話し合った。発した言葉をクラス全員が承認してくれた。
陰口、悪口などは一切なく、仲間に対して思いやりを持っている人ばかりだった。
その思いやりを持たせてくれたのは、“班日誌”だった。
班ごとに1冊ノートを作り、それを毎日班内で回すものだが、みんな書くのが楽しみだった。
最近の話題、自分の思っている事を素直に書く…。
それを先生が読み、先生からも感想が書かれ、次の人に…。次の人もコメントをしていく・・・。
次に回ってきた時には、前に書いた自分の文章にたくさんのコメントが載っていて嬉しかった。
クラスの中には、長編を書く人もいた。
牛嶋が書いていたのは、今週の私的ベスト10的な内容のものだった。
この頃からオフコース、浜田省吾などの音楽にハマり、良い音楽を紹介していたような・・・。
今の“DJ”という仕事の原点がここにあったのかもしれない。

中学校時代

中学校時代

とうとう卒業の日がきた。悲しくて悲しくて仕方がなかった。
そんな中、3年から担任になった大河原先生が『今日の卒業証書授与式でみんなの名前を呼ぶ際、
名簿を見ないで後ろ姿を見てフルネームでいう事にします』と宣言。
大河原先生は先生になって2年目で、初めてクラスを持ったのが3年3組であった。
『それだけ気合が入っているのか?』と、『牛嶋俊明!』と呼ばれた際には、
かつてない大きさの声で『はい』と返事。卒業証書を受け取ったのを覚えている。
そして、卒業式の後、クラスで先生の最後の言葉…。
大河原先生が何を言ったのか?申し訳ないが、覚えていない。
しかし、『俺はお前たちと別れるのがイヤだ』と泣きじゃくっていたのは鮮明に覚えている。
野球部の顧問だった事もあって、先生には遠慮があったが、その時はじめて
『先生は俺たちの事を本当に可愛がってくれていたんだ』と思った。
正直、まだ2年目の先生で、『あの発言はないんじゃないの?』という指導も多々あった。
しかし、情熱ある良い先生であった。
2008年に久しぶりに会ったが、髪の毛に少し白いものが目立つだけで
風貌は全く変わっていなかったのには驚いた。
大河原先生は、その後、異例の昇進を果たし、今では米沢市内の中学校の校長をしている。
いつまでも忘れられない先生だ。

高校入学~現在

卒業に際し、みんなの進路も決まった。
米沢市内の高校に行く者がほとんどで、同じ高校に行く者、別の高校に行く者などなど、
『もうこのクラスでこの教室に集まる事は2度とないんだなぁ~』と思うと、とても悲しかったのを覚えている。
あれから20年・・・。
2008年に再会したが、連絡の取れない人が数人。
40人近くいたので、それも仕方がないが、いつかクラス全員が集まるクラス会が出来ればと思う。

1982年(昭和57年)、山形市の日本大学山形高校に入学した。
米沢市の高校に進みたかったが、同時にこの時、日大の芸術学部に進んで放送の仕事に就きたいという希望も生まれ、
日大の付属高校に行く事に決めた。

日大山形は野球の名門校。誰もが野球部に進むと思ったらしいが、迷わず放送部に入部。
放送の仕事に進みたい!という気持ちと、自分は人よりも劣っているから、
今からその道に進む準備をしていないと間に合わないでは?という気持ちからだった。

放送部ではお昼の校内放送を担当。自分で番組を作り、FMラジオで録音した新曲を流すのが自分のスタイルだった。
『発売前の曲をなぜ持っているのか?』などとクラスの友達に聞かれ、優越感に浸っていたっけ。

放送部で一番面白かったのが甲子園取材。
野球の名門とあって在学中に2度甲子園に出場したが、甲子園で取材したのは今でも良い思い出だ。
と言っても、今思えば取材といえる内容だったのか?と思うが…(笑)。
その他、当時山形市内に住んでいた変な外人を取材し、番組コンクールに出して佳作になった思い出もある。
それが山形放送で放送されたが、初めて自分の声がラジオを通して流れたのが、この時だった。
ちなみに変な外人とは、タレントとして今や全国区になったダニエル・カールであった。

高校に入って一番ショックだったのは、“中学校の時のクラス”と違っていた事だ。
クラスの仲間というのではない。ホームルームもそっけなく、班日誌もない。
高校のクラスは単なる生徒を分けているだけに過ぎなかった。寂しかったが、
同時に、『もう子供ではない年齢になっているのだ』のだと思った。

正直、高校の頃の思い出はあまりない。でも、決して楽しくないわけではなかった。
放送部の合宿で庄内地方に行った事、1つ下の女の子と交際していた事など“青春”の思い出はある。
しかし、高校時代の友人と今ではほとんど付き合いがないのが、それを証明しているのでは?

1985年(昭和60年)、駒澤大学経済学部に入学した。
予定なら日大芸術学部に進むはずだったが、大学入試に失敗してしまった。
『もうこれで放送の仕事に就く事は出来ないのか?』と思ったが、今では日大芸術学部に進まなくて良かったと思っている。
進めば進んだなりの将来があったかもしれないが、反骨精神が生まれないままの学生時代を過ごしていたかもしれない。

大学進学後、すぐにアルバイトをした。最初に面接を受けに行ったのはコンビニエンスストアのローソン。
まだコンビニが出始めの頃で、コンビニ=便利ではなく、コンビニ=値段が高いというイメージの頃である。
商品陳列、レジ打ちなどいろんな仕事をさせてもらったが、ローソンで出会った仲間と話すのが楽しかった。
他の学校に通う大学生、昼はそば店で働き、夜だけローソンでアルバイトをしていた人、アイドルの追っかけをしていた不思議な人、
そして、ローソンの社員の人とも仲良くさせて頂いた。

自分で言うのはなんだが、仕事はメチャクチャ出来た。
全国陳列コンクールがあれば、間違いなく優勝していたであろう。陳列はメチャクチャ上手かったと思う。
その他、通常なら社員がやる仕事も任され、『将来はローソンで働かないか?』と社員から誘いを受けた事もあった。
『このまま就職したら楽だろうなぁ~』とも思ったが、自分には“放送の仕事に就く”という目標があった。
でも、アルバイトと学校にかまけて、その道に進むための勉強をしていなかったのは確かだ。

『そろそろ放送の道に本格的に進まなくては?』と思った大学4年生の春。
“放送の仕事”の中でもアナウンサーに狙いを定め、恵比寿にある専門学校『東京アナウンスアカデミー』に入学。
尊敬する古舘伊知郎さんが通っていた学校だから・・・というのが理由だった。
希望を持って入学した初回の講義で自己紹介。すると担当の渡辺英麿先生に、『君は来るのが遅いね』と一言。
『えっ?』と驚いたが、アナウンサー志望の人は大学入学と同時、あるいは大学3年生になった頃から通い始めるとの事だった。
それでも、4年になった以上は受験せねば!と思い、人生最初のアナウンサー試験である福岡放送を受験。
しかし、あっさり1次で落とされた。
その後は、先生に付いて受験対策。しかし、2社目も落ち、3社目も…。
『アナウンサーになんか絶対になれないのでは?』と思ったのはこの時。
しかし、『一生の仕事なんだから』とコツコツ勉強を重ね、ようやく1次、2次と突破するようになった。
そんな中、先生から『今年、受験するのはやめなさい。留年して来年に賭けなさい』と一言。
ここでも、『えっ?』と驚いたが、長年に渡り、多くの学生をアナウンサーにしてきた実績ある先生の一言は効いた。
素直に受験するのをやめ、親にも留年する事を説得。
当時は、相当反対されたが、今思うと、よく親は許してくれたと思う。

アナウンサーになるため、大学をわざと留年。“5年生”の時は、毎日、アナウンサーになる事だけを考えていた。
朝、起きて『東京アナウンスアカデミー』へ。 “自主トレ室”で、声を出し、午後は広尾の有栖川図書館で時事問題、漢字の練習。
そして、夕方はまた『東京アナウンスアカデミー』に戻り、自主トレして、夜は先生と一緒に飲みに行く・・・
そんな生活を繰り返していた。
『東京アナウンスアカデミー』でお世話になっていた先生は、渡辺英麿先生。
あの古舘伊知郎さんをはじめ、数多くの学生を放送局に送り込んだ実績のある先生だった。
先生も『留年しなさい』と言った手前、無償で面倒を見てくれた。
別に教室を借りて、教室の借り賃だけで教えてくれた事もあった。
アナウンスの技術もそうだが、渡辺先生には受験対策をしっかり教わった。
アナウンサー試験に臨むための心構え、勉強すべきところなどを徹底的に教わった。
先生が必ず言っていた事は、『アナウンサーになるため大事な事は“動く事”』。
正直、この意味が全く分からなかった。とにかく“徹底的に何でもいいから行動する事”がその答えだが、
『アナウンサーになりたい』と訪ねてくる人には必ず同じ事を言う自分がいる。
本当に、“動く事”は大切なのである。

先生の指導と、がむしゃらに行動した事で、“大学5年”の7月に中部日本放送(CBC)に合格。
ひたすらアナウンサーになる事だけを必死に考えてきたが、『まさか自分が合格するなんて』というのが正直な気持ちであった。
書類審査で700名から200名へ。200名から20名に。20名から4人の合格者である。
今、受験したら、正直、受かる自信はない(笑)。先生にはただただ感謝だ。
1990年(平成2年)、名古屋の中部日本放送(CBC)に入社。
こうして牛嶋俊明のアナウンサー生活がスタートした。

その後、1998年(平成10年)、中部日本放送(CBC)を円満退社。
フリーランスを経て、1999年(平成11年)、岡山エフエム放送に入社し、今に至るが、
こうして幼少の頃を振り返ると、よく自分のような人間がアナウンサーになれたなぁ~というのが正直な気持ち。
でも、一度しかない人生。命をかけて一所懸命に取り組んだからこそ、夢が実現出来たと思っている。

夢を持とう!そして、見るだけじゃなくて叶えよう!情熱を持って取り組めば誰でも叶う!それが牛嶋俊明からのメッセージである。

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