当サイトに遊びに来てくれる梅安さんの『梅安雑記』のページです。

2006年 1月22日 更新

釣りと歴史と時代劇をこよなく愛する梅安でございます。このたび牛嶋さんのご好意により、このようなコーナーをいただきました。新選組や武蔵など歴史にまつわる散文、雑文ですが、御用とお急ぎでなかったらどうか目を通してみてください。


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源平騒乱記   2006年 1月22日 UP

幕末史から近代史が専門の梅安氏が、源平合戦について語る!

考証 竜馬暗殺「近江屋へ来た男」   2004年11月 9日 UP

竜馬暗殺について、大河ドラマの設定とは違う異説。

Ifの維新史 「寺田屋」   2004年 9月21日 UP

寺田屋を新選組が襲撃していたら?史実を度外視した梅安氏の力作

再び日野!   2004年 7月20日 UP

土方歳三の生家(土方歳三資料館)と万願寺で行われた天然理心流演武を見学した雑記

第30回総司忌   2004年 6月22日 UP

2004年6月20日(日)に行われた『第30回総司忌』に参加した雑記

街道をゆく  2004年 5月18日UP

当時試衛館があった市谷から、近藤勇らの故郷・多摩までの徒歩旅行記

「源平騒乱記」

はじめに
久々に執筆の梅安雑記です。今回は源平合戦にまつわる解説を数回にわけてお届したいと思います。とは言え、梅安の専門は幕末史から近代史までなので何分この時代には疎く、そのため一から勉強してみました。するとすると、中々面白い発見がいくつもありました。とにかく、この時代は源氏と平家と朝廷がもうしっちゃかめっちゃかになって、やがて武士による政府、幕府が誕生します。きちんとした王朝があるのに政治を執り行うのは別の機関がある。こんな例は世界中どこを探しても日本史くらいしかないので、そこに至るまでの過程がかなり複雑なのですが、できるだけ解り易く面白く、自身も楽しみながら筆を進めて行きたいと思います。

第一章 「後白川法皇って誰?」

●「後白川法皇」
本題に入る前にこの人物の説明は不可欠である。源平合戦のキーマンとも言える人で、源氏も平家もこの時代そのものも、後白川法皇によって翻弄されたと言っていいだろう。第七七代の天皇で在位は、わずかに三年。その後は上皇となって院政を始めやがて法皇となる。上皇とは、天皇を辞去した後の官名で出家すると法皇と呼ばれる。何故、天皇の座を辞して上皇となるのか?それは院政をしくためである。院政とは政治のシステムのひとつで、まあ早い話が天皇の座を息子などに譲り、その後も自分は父親もしくは天皇のじいちゃんとして、天皇を無視して政治をとりしきることである。例えば、社長の椅子は息子に譲り会長職につくが、いろいろと経営に口出しするうるさいじいさんと思えばよい。どこかのプロ野球チームの元オーナーにも似てる気がするが。。。後白川法皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽と五代三十余年に渡り院政をしいた。その間、政治上自分の立場がやばくなると、平家から木曽義仲、義仲から義経、頼朝へと次々に手の者を乗り変えて、朝廷と自分の立場を守った。頼朝から「日本一の大天狗」と罵られる人物である。

(豆知識)
ちなみに、最初に院政を始めたのは、1086年の白川上皇である。紛らわしいが、後白川法皇とは別人物。院政が行われる以前は、摂関政治が行われこれは藤原一族がたらい回しにしていた。摂関は、天皇が女性であったり子供だった場合、代わりに政治を行う人のことで、天皇の母方の祖父が就くことが決まりだった。しかし、藤原頼通の代になると天皇家に嫁いだ嫁が男子を産まなくなり、やがて後三条天皇、白川天皇の代から院政にとって代わられる。そして、関白というのもある。これも天皇の代理に政治を仕切る人で、この場合は天皇が成人していても構わず政治を行う。藤原氏以外で関白に就いたのは、後にも先にも豊臣秀吉だけである。こうして見ると、天皇がいるのに院政だの摂関だの関白だのって政治は別の人が行っていて、「それなら天皇なんて、名前だけの看板じゃん?」などの声が聞えてきそうだが、まったくその通り!どうやら、この時代の政治システムはそのようになっていたようだ。

第二章 「源氏と平家はいつから争うようになった?」

院政のしくみについては、だいたいおわかりいただけただろうか?前章で説明したように政治の実権を握るには、天皇でいるよりもその座を自ら退いた方がいいという訳だ。と言うことは院政をしくために、同時代に上皇が数人いたことになる。そうなったら、誰が院政をしくのか? そこで当然、覇権を求めて上皇同士や上皇対現天皇という争い事も起こるのである。保元の乱はそうした争いであった。

●「保元の乱」(1156年)
それまで院政をしいていた鳥羽法皇の死後、その後の院政を誰がやるのかで鳥羽法皇の息子で兄の崇徳上皇と弟の後白川天皇との争いであった。両者ともに源氏と平家などの武士を集めて闘い、天皇方の勝利に終わり、天皇はその後、後白川上皇となる。後白川方に付いた武士は、平清盛・源義朝・源頼雅らが加わる。この闘いは同じに「武士」という階層が中央政界に頭角をあらわすきっかけとなる。

●「平治の乱」(1159年)
保元の乱から三年後、戦功を上げた清盛は後白川上皇に上手く取り入り、かなりの出世をする。一方で、同じように戦った義朝の方は処世術が下手だったようで、それほどの官位が与えられず、不満を抱いていた。義朝は、息子の頼朝を連れてクーデターを起すも逆に返り討ちにあってしまい、敗走する途中で家臣の裏切りにあい殺されてしまった。この戦いにも勝利した清盛は、平家の天下を絶対のものにしていく。そして、源氏と平家の争い、頼朝と義経の物語もこのへんから始まるのである。

(解説)
武士という階級について、ここではまず戦いのプロ、戦闘者という定義をしておきたい。そもそも、源氏も平家も元々は、かつての天皇の末裔たちである。源氏の一族に至っては、代々朝廷警護を担う武人であった。その役は「鎮守府」と言われ、これは京都朝廷を脅かす東北地方勢力の南下を防ぐ言わば、国境警備隊で、そこで働く者は当然、武人つまり戦闘のプロであった。彼らは、「兵」とか「弓取る者」または「侍」と呼ばれた。

そんな彼らも、長年その土地に住んでいればやがて、土地を開墾して田畑を営み産をなすようになってくる。ここに至って、武士には開墾地主・領主つまり土地所有者といもうひとつの顔を持つことになる。これが日本の武士の特徴とも言える。ここでひとつ注意しておくが、武士とは、だからと言って「農民」ではない。農民が現在のように土地所有者、土地権利者となったのはほんのつい最近、昭和になり戦後からの話である。それまで、「農民」という層は、あくまで「土地所有者(武士)に支配される非支配者層」のことを指していた。 しかし、農民と日本の武士は対立しているわけでもなく、日本の武士の特徴的な点は彼らは農民とともに自ら土地を耕し、農耕作業に従事することは習慣的に受け入れてきたことである。このことは、同じ支配者層と言っても、中国やヨーロッパの王侯貴族とは大きく異なり、日本の武士は一般庶民のずっと近いところにいたことになる。我々が、武士たちを祖先として懐かしく感じるのも、こうした下地があるからであろう。

話を元に戻すが、武士たちが開墾していった土地というのはは当時はまだ、正式な領土としては認められていなかった。当時の正式な政府である京都朝廷が、土地の所有権を法令化していなかったからであり、従って、武士たちの願いは「あんたの耕した畑も田んぼも、ぜ〜んぶ、あんたの物ですよ!」と、公式な機関に認めて欲しかったのである。

第三章 「清盛の失敗」

●「平家の時代」
平治の乱にも勝利した清盛は、朝廷内でも大出世をしてついには武家出身としては始めて、最高官位である、従一位太政大臣に任官される。 清盛は権力を持って、一門を引き上げ、公卿16人、殿上人30余人、知行国は30を越え、文字通り平家は栄華を誇った。一門を引き上げたのは、朝廷内の自派勢力の強化という意味もあるが、清盛の代になってからの平家の特徴的な点は、平家一門は親兄弟、親戚に至るまで仲が良く結束が固かった。ゴッドファーザー・清盛を頂点とした平ファミリーの至福の時代であった。

●「清盛の暴走」
清盛の妻時子の妹滋子と後白川法皇との間に生まれた子が八歳で即位して、高倉天皇になると、皇室の親戚となった。さらに清盛は自分の娘徳子を高倉天皇に嫁がせ、建礼門院徳子とした。やがて、天皇と徳子の間にも待望の皇子が生まれた。 こうなったらもう、後白川のじじいなんかに用はない!清盛は、後白川法皇から院政を取り上げて幽閉してしまった。そして、高倉天皇を退位させ、三歳になるかわいい孫を安徳天皇に即位させることに成功する。「院政を止めさせたのに、天皇はまだ子供だよ?誰が政治を仕切るの??」こんな質問が出てきそうだが、ちょっと思い出して欲しい。そう!清盛の目的は、第一章で説明した摂関政治を自分がすることであった。それからもう、清盛はやりたい邦題! 反平家公卿40人余りを追放したり、摂津福原(現神戸市)に開港(大輪田泊)して日宋貿易を利用し私腹を肥やしたり。。。

●「清盛の失敗」
清盛の一番の失敗は権力に溺れ、自分が武士出身であるにも関わらず武士のための政治を行わなかったことであろう。律令国家(当時の日本)において、土地の私有は認められていないということは、以前に説明したが実際にはいくつかの抜け道もあった。「荘園」と呼ばれるのもそのひとつで、東国武士たちにとって自ら開墾し育んだ政府からは非公式とされる私有地を守るために、武を練り、私兵を貯え、男をみがいた。そして始めて「武家」になりおおせる。土地は武士たちの存在価値そのものと言ってもよかった。武士たちの命とも言える土地、自衛するだけでは心もとないの・u桙ナ、朝廷にも顔の効く武家(この時は平家)に取り入り、私領を保護してもらう。知行国の武士たちは、だからこそ平家におもねり、仕えた。しかし、清盛は代々、白子の浦で内外貿易をおこない、その利のなかで成人した男だけに商人の経済観を持っていた。土地よりも財宝を愛したのである。こうした開発地主上がりの東国武士たちとは大きく異なる価値観を持っているだけに、武士たちの思いも清盛には届きにくかったであろう。こうした背景から、「反平家」の気運は「平家ばっかり甘い汁吸いやがって!」と武士たちの間にも高まり出す。やがて、清盛は日宋貿易に力を入れるためにも、周りの反対も聞かずに強引に京を捨て、都を福原に遷都するが結果的にこれは大失敗に終わる。 おごれる者は滅びるのが世のことわり。栄華を誇った平家にも衰退の雰囲気が漂ってきた時期であった。

(解説)
●「太政大臣」
律令官制の中の最高官職。右大臣、左大臣がその下。最高官職と言っても、とくにやらなければいけない仕事はない。この官職は、ずっと長く日本史の中にあり明治18年の内閣の発足まで続いた。
●「大番役」
地方の武士たちが交替で都の警備にあたる役。通常・三年が期限だが、都の警備=朝廷警備も意味しているのに、旅費滞在費はすべて自腹。それが三年も続くのだからこの負担は恐ろしいばかりで、大番を済ませると大抵の在郷武士の家計は底をついた。それでも、都の任に就けば平家となんらかのパイプを持つチャンスも望めたのだが、清盛は土地問題には無関心。で、土地を守るために三年の大番を辛抱しても、その土地は他人の手に。。。なんて話はけっこうあった。こうしたことからも、武士の間で平家への反発心が強まり出した。

第四章 「頼朝のめざすもの」

●「以仁王の令旨」
傍若無人な清盛の振舞いを、遠目でみながら誰も止めようとしなかったわけではない。当然である。清盛が安徳帝を即位させ摂関政治をやろうとしたとき、ぶち切れた人がいた。 この頃、平家によって鳥羽院に幽閉されていた後白川法皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう)がその人で、「新帝はわずか三歳。これでは清盛の操り人形ではないか!」と憤慨。彼は源氏唯一の公卿、源頼政と計り、源氏の諸将たちに「令旨」を発令した。「令旨」というのは、平家打倒の挙兵を呼びかけた沙汰状、命令文のことだ。このことはすぐに平家方に露見し、以仁王と頼政は平知盛らに殺されてしまうが、令旨の効力は絶大で、源氏の諸将たちは次々と挙兵することにぁw)ネる。そうして、伊豆に配流されていた源頼朝の元にもこの令旨は届けられた。

●「頼朝、挙兵す」
さて、いよいよ頼朝兄さんの登場である。治承四年(1180)、伊豆に配流の身であった頼朝もこの時、33歳。二年前には北条政子と結婚して北条家は頼朝の親戚となっていた。北条家という後ろ盾もある今こそ決起の時!と、頼朝は源氏の旗を挙げる。伊豆から海を渡り安房、下総。上総と次々と進軍して兵を増やし頼朝軍は大軍となり相模を抜け、鎌倉に本拠を構えた。 頼朝挙兵の報を聞くと、たまらずに奥州平泉の地から頼朝のもとへ馳せ参じた若者がいた。若者の名は、源九朗義経。頼朝の異母弟である。 黄瀬川宿で初めて対面した二人は、「兄上!」「弟よ!」と、ともに涙を流した。この情景を見ていた頼朝の家人どもも皆もらい泣きしたという。 感動のシーンではあるが、このエピソードはあまりにもドラマチックで芝居めかしい気もする。兄弟のその後を知っている我々としては、「本当かなぁ?」と勘ぐってしまうが、「吾妻鏡」にも、「互いに懐旧の涙を」とあり、他の資料にもこのくだりは登場するので、真実であったようだ。だが、この二人が互いに肉拭w)トらしい情を交わしたのはこの一度きりである。

●「一所懸命」
土地は武士kuノとって存在価値そのものであり、土地の広大さはそのまま武士を計る尺度となった。ということは、ここまでの説明でご理解いただけたと思う。戦国時代の武将たちの「国取り合戦」も、領土の奪い合いから端を発したことを考えればわかりやすい。「一生懸命」という熟語があるが、もともとは「一所懸命」と書かれ、これは文字通り当時の武士たちが懸命にひとつの場所(土地)を守ろうとしたという意味である。だが、土地の私有は公式には認められない。土地所有の公認を保証してもらうことこそ、当時の武士たちの悲願だったといえる。話を頼朝に戻す。頼朝がどうして、こうも簡単に兵を集められたか?それは、頼朝の思想が当時の武士の立場に立脚していたからである。現代の選挙戦に例えて説明しよう。「源頼朝候補は、与党(平家)に勝利したあかつきには、東国の武士たちの土地所有をその名において保証することを公約に掲げ、出馬を表明した」 こうなれば、有権者(東国武士)の支持率は頼朝に集まるわけだし、こぞって頼朝の軍門に下ることとなる。頼朝のこの思想は、後に「武士の、武士による、武士のための政府=幕府」の誕生へ繋がっていく。頼朝挙兵の・u椁レ的は、あくまで平家の追討だが、彼の優れた点は、平家追討後の政治的ビジョンを挙兵した時点から下書きしていたことである。

第五章 「源氏の総大将」

●「日本史の不思議」
平家追討と武家政権の樹立をめざす頼朝は、何故朝廷ごと滅ぼさなかったのか?確かに、外国史の例を見れば、新政権というものは古い大政を滅ぼした上にできあがる。でも、それをしなかったのが日本史の面白いところ。前にも説明したが、武士というのはもともと鎮守府として各地に配属された国境警備隊の末裔たちで、その先祖は下級貴族であった。従って、「天皇は尊ぶべき存在」という理念も至極当然に持ち供えていたのである。頼朝のもとに諸将たちがこぞって参加した理由のもうひとつは、令旨の持つ効力があった。これを受け取った頼朝は、おかげで武家集団の尊崇を集めることができた。つまりは、「頼朝のバックには朝廷あり」という宣伝が侯を奏した。おまけに頼朝は名家源氏の嫡男で、土地の所有権まで保証してくれるとあれば、武士たちにとってこれほど頼もしいリーダーの存在もない。武士たちに流れる、貴族の血が京から遠く離れた東の地にあってなお、天皇(京都朝廷)にそれほどの権威を感・u桙カさせていたといえる。頼朝は、理念としての皇室崇拝と現実問題としての土w)地保有の欲求に巧みに両方応えてやれる有能な政治家であったといえる。 現在の、皇室もしくは王室と議会が共生している構図とは少し違うが、幕府は朝廷から政治の運営を(半ば強引にではあるが)、委託されていた機関、と考えればいいだろう。

●「新宮十郎行家」
人名辞典の多くは、「源行家」で引かないと出てこない。熊野源氏の当主で、源義朝の末弟。つまり、頼朝、義経の伯父にあたる人物である。頼朝のもとに、以仁王からの令旨を持ってきたのがこの行家だ。この人物、後白川法皇にも負けず劣らぬ老獪な狸オヤジである。もっとも、ある程度の老獪さとしたたかさがないと生き残れない時代でもあったが。 頼朝は、肉親だからといってこの行家を重要な位置には置かなかった。その理由として、ひとつには行家は口ばかりが達者で、兵を預けて戦をさせれば百戦百敗するほどの戦下手であったこと。それと、令旨を持ってきたことを恩に着せ、伯父だとうことを傘に隙あらば鎌倉軍の中で頼朝よりも上に身を置こうとする伯父は、源氏の総大将たらんとする頼朝には、肉親だからこそ油断のできぬ男だったからだ。「ふん! 頼朝の野郎、誰のおかげで挙兵できたと思っぁw)トるんだ!」 と、その処置に不満だった行家は、頼朝の元を離れ、以仁王からの令旨を持って、信濃路を木曽へと走った。

●「馬を引く義経」
行家ばかりでなく、頼朝は血縁関係のある身内には厳しい人であった。この点で、一族中の良かった平家とは対照的である。血の繋がりの濃い義経には特に厳しかった。黄瀬川の宿で涙の対面をはたした義経をすぐに「一軍の将」として扱ったわけでも、戦に出したわけでもなかった。義経は御家人の一人に過ぎなかったのである。「吾妻鏡」の中に、こんなエピソードがある。鶴丘八幡宮の宝殿の上棟式が行われた日、大工に褒美として馬が与えられた。頼朝は、この馬を引く役目を義経に命じたが、義経は「下手を引く者がいない」といい訳をして、断ってしまう。頼朝は、「畠山重忠や佐貫広綱のような立派な相手がいるではないか。役目が卑しいからしぶっているのだな!」と、一喝。義経は、「すこぶる恐怖して」命令に従った。頼朝のこの態度は、弟に馬を引かせる姿を他の御家人たちに見せることで、「源氏の総大将は、俺なのだ」という、権威を誇示しようとしたことが伺われる。もちろん、そのメッセージは、当の義経にも向けぁw)轤黷トいた。だが、兄の意図は初めから、「僕は鎌倉殿(頼朝兄さん)の弟だ・uィ」という自負と甘えのある義経には理解できなかったようだ。 こうした、兄弟間の意識のギャップは後に、悲劇を生むことになる。

(解説)
●「吾妻鏡」
鎌倉幕府が編纂した日記形式の歴史書である。頼朝と義経の物語を伝える、重要な資料のひとつである。他には、九条兼実の日記「玉葉」や、軍記「平家物語」「平治物語」「源平盛衰記」「義経記」などがある。ここに上げた資料の準に史実性が高いと考えられている。ちなみに、牛若丸が天狗から兵法を習うのが、「平治物語」 五条大橋での弁慶との対決は、「義経記」から派生している。やや、創作性が強いことがわかる。 また、「吾妻鏡」「玉葉」も仮名使いや言葉も中世初期のものなので、その解読は恐ろしく難解であり、現在でも解釈の研究は続いている。

第六章 「二人の源氏」

●「木曽義仲」
頼朝のもとを追い出されるように後にした行家が、次に向ったのは、信濃国木曽の木曽義仲のもとだった。義仲は、頼朝、義経の従兄弟にあたる。義朝の弟、義賢を父とする。出自から言っても、頼朝と木曽義仲、どちらが源氏の棟梁になってもおかしくなかった。都育ちの頼朝とは違い、木曽の山育ちの義仲は、無類に人懐こい性格の持ち主で、行家の来訪を、「叔父御! 叔父御!」と歓迎した。肉親だというだけで、行家を無条件に信用し、政治眼という毒気もまるでない人物であった。「これは、与し易い」 腹黒い叔父は、行家をそう評価した。行家自身は、兵も財産も持たない弱者であった。が、出世欲は人並みはずれており、強者にうまく取り入り、そこに寄生して立身するという知恵は長けていた。義仲を焚きつけ挙兵させ、京を攻め、平家を追い出した後は、義仲をうまく丸め込み、自分が源氏の総領になれる。 お人好しの義仲を利用して、クソ生意気な頼朝を出し抜こう。そんな策略があった。しかし、行家には策士としては、致命的な欠点もあった。それは、堪え性がなく、己の策略をついつい誰かに喋ってしまうということだ。謀反の計画が早々に平家方に露見したのも、頼朝のもとを追い出されたのも、その欠点が災いしている。

●「鎌倉体制」
兄から馬を引かされた一件から後も、義経は戦には出してもらえず、鬱々とした鎌倉での日々を過ごしていた。頼朝と義経、この兄弟には意識に差が有り過ぎた。頼朝は、弟を家人の一人として扱ったが、義経にはそんな意識はない。「ぼくは、頼朝兄さんの弟だから、兄さんの家人は、ぼくの家人ということにもなるんだよ」義経には、そんな意識があり、他の御家人たちに自分が主人であるかのような振舞いをしていた。当然、義経は他の御家人たちからも嫌われ、そのことは余計に頼朝の心象を悪くさせた。義経の原理は、兄弟という血であった。しかし、頼朝は違う。頼朝の原理は血ではなく、「鎌倉体制」であった。この体制を築くのに役立つ者は優遇し、害となる者は肉親といえども排除した。本人は、気づいていないが義経は、いずれ鎌倉体制に害をなすような因子を持っていた。それは、京を離れてから頼朝のもとへ来るまでに、奥州藤原氏の庇護を受けていたことにある。奥州藤原氏は、平安時代中期から東北地方で半ば独立国家していた。朝廷に取っても「夷」であり、頼朝にしても、いずれ強大な敵になるやもしれない相手であった。義経は、藤原氏の家臣である佐藤忠信、継信兄弟を郎党に加えて頼朝のもとに来た。このことは、頼朝に強い警戒心を抱かせ、余計に弟に冷たかったのかもしれない。

第七章

●「本当に強かった源氏の兵」
頼朝が伊豆で挙兵した一月後、叔父の行家にうまく乗せられ、頼朝に呼応するようなかたちで、木曽義仲も挙兵し源氏の旗を挙げた。頼朝の挙兵の報を知りすぐに挙兵していることから、義仲の頼朝に対する強いライバル心が伺える。地理的にも木曽は鎌倉より京に近かった。義仲は兵をかき集め、信濃から北陸地方を転戦。ついには、数では劣りながら倶利伽羅峠で平家軍を打ち破ることに成功する。比叡山延暦寺をも見方につけると、木曽軍は五万の大軍に膨れ上がり、京の都はすぐそこまで迫っていた。数では劣りながら、源氏軍は何故こんなに強かったのだろうか? 平家物語の中に源氏軍の戦にかける意気込みとして、こんなことが書かれている。「戦になれば、親も討たれよ、子も討たれよ。身内が死ぬのも当然のこと。死ねば、その屍を踏み越えてでも闘い続けるだけである。ところが、平家軍の武士どもは、親が戦士すれば供養をし、子が戦死すれば嘆き悲しむ。我々、源氏の武士はそんな情けないことはしない」我々の感覚からすれば、どう見ても平氏軍の方がまともに思えるが、つまりはそれだけ、武士とは戦闘のプロでなければならないということだ。平家軍がこのへん不徹底なのは、彼らが京を本拠地とし、上流貴族の風習に慣れてしまった結果であった。それは、武士としてのアイデンティティの欠落といえた。

●「そのころ、鎌倉では?」
木曽義仲、行家軍が明日にも京へ入ろうとしていたとき、鎌倉の頼朝は動こうとはせずに東国の地盤固めに尽力していた。兄のもとで戦にでることもなく、飼い殺し状態にあった義経はさぞや歯噛みする思いであっただろう。「兄上は何を悠長にかまえておられるのだ! このままでは木曽殿に先を越されるではないか!」もちろん、頼朝には頼朝の考えあっての行動である。

●「そして平家は?」
おごれる平家の総帥清盛は各地で起こる反平家の火の粉をもみ消すのに躍起になっていた。しかし。養和元年(1181年)、ついには病に倒れこの世を去った。清盛の後を継いだのは、嫡男の宗盛であった。清盛は最後に一族にこんな遺言を残している。「もしも、平家に万一のことがあれば、一度京を離れ西国に落ちて体制を整えよ。その際は、幼帝の安徳天皇と三種の神器、後白川法皇を連れて行け。そうすれば平家はいつまでも官軍でいられる」清盛は自分の死とともにおとずれる平家の衰退を予言していたようである。院政はすでに法皇のもとに返還されていたが、確かに京を落ちても法皇が手元にいれば政治の実権を握ったままでいられるのである。しかし、平家の後を継いだ宗盛は、「たとえ平家が滅んでも自分の命だけは助かりたい」と考えるようなヘタレであった。宗盛は、義仲の軍が京目前まで迫っていることを知ると戦おうとはせずにすぐに逃げる算段を始めた。清盛の遺言通りに事を進めようとしたのだが、ここで思いもかけない事態が起きた。後白川法皇が、忽然と御所から姿を消したのである。平家は仕方なく、安徳天皇と三種の神器だけを頼りに西国へ逃れることになった。

解説「勝てば官軍」
官軍とはすなわち、天皇の兵である。しかし、官軍とは天皇への絶対の忠誠を誓い組織された不変の部隊ではない。そもそも、公家公卿は古来より武を好まず雅を好しとした。それゆえに天皇は私兵を持たず、その場その場で力のある武門を官軍として雇い入れた。より解かり易く言えば、官軍とは巨大な用心棒部隊ともいえる。院は朝廷を守るために、ときにはそれまで自分を保護してくれた武門(官軍)を容赦なく切り捨て、より力のある武家に官軍を名乗らせるという歴史があった。そのため、昨日までは官軍だったのに今日には賊軍なんて話もよくあった。幕末の動乱に薩長同盟軍が官軍を名乗り形勢を逆転させたのもまさにその例である。

第八章 「奢れる者久しからず」

●「大天狗舞う」
都落ちを決意した平家一門の前から姿を消した後白川法皇。彼はこのとき、ひそかに院を抜け出し、比叡山に陣をかまえる木曽義仲、行家と面会していた。身内であるにもかかわらず孫の安徳天皇を連れ去った平家を見捨てたのだ。新しい武家勢力である源氏に頼ったのは明白であった。平家が都落ちした翌々日、寿永二年(1183)二月二十八日、義仲、行家率いる連合軍五万騎は無血での上洛を果たした。翌二十八日、法皇は正式に義仲に平家追討を命じている。義仲、行家ともに従五位の官位を任官。二人にとってはまさに人生最良の時であった。だが、二人ともまだ法皇の人となりに気づいていない。

●「怠惰な大将」
京に上り官位を得て晴れて公卿の仲間入りを果たした義仲であったが、所詮は山育ちの田舎武士、公家同士の付き合い方においても行儀作法などまるでできておらず品がなかった。なかなか平家追討に動こうとはせず、人生最大の栄華の時をただただ怠惰に過ごした。当然、他の公卿たちからの評判は悪い。それでけではなく、最も京の民衆を悩ませたのは、木曽兵による乱暴狼藉ぶりであった。まさに苛烈を極めた。何万という盗賊が入りこんだと思えばよい。群れをなして女を見つければ次々と犯し、多くの女はそこで息絶えた。また軒並みに略奪をし、家を壊し蔵を襲い、さらにはその軒下まで掘る者もいたという。これには朝廷もほとほと頭を悩ませ、再三にわたり義仲、行家に注意をうながしたが一向に改善はされなかった。京の民衆は、「これならばまだ平家の世の方がましであった」と思ったことだろう。当然、後白川法皇はこの惨状をなんとかするべく鎌倉の頼朝を頼り上洛を要請する。この要請に頼朝は「東国の沙汰権を認めて欲しい」という交換条件を突きつけてきた。これにより、「寿永二年の宣旨」が発令される。これは頼朝(武家)による独自の東国政権が樹立したことを意味している。

●「イナゴの大群」
義仲、行家がなぜ木曽兵の狼藉ぶりを止められなかったかといえば、彼らの地盤がとても希薄であったからに他ならない。京に進軍する際にも兵糧を用意していなかったのだ。そのため、兵たちの糧は戦勝地での略奪に頼るしかなかった。また、木曽兵と言っても、義仲直轄の兵はわずか千騎たらずで、残りは通過してゆく地方地方でかき集めた雑兵である。そのほとんどが、土地も持たないあぶれ者で「木曽殿に着いて行けば旨い汁が吸える」と考えでここまで来た。義仲も義仲で、「われに付き従え、京は財宝の山だ」と彼らを鼓舞してきた手前、京における彼らの略奪を制止するわけにもいかなかった。いまさらそれを制止すれば彼らは四散してしまい、義仲も行家ももとの裸身に戻らねばならない。この点、整然たる坂東武士団の秩序の上に立っている頼朝とは条件が違っていた。しかし、義仲が制止するまでもなく、田畑を食い尽くしたイナゴの大群のように京の街を食い尽くした木曽兵の数は少しづつ減っていくことになる。

第九章 「征夷大将軍」

●「義経の初陣」
鎌倉の頼朝は、これまで「義仲を何とかせよ」という院からの再三の要請をのらりくらりと交わしながら外交を行ってきたが、東国の地盤がいよいよ固まると遂に義仲追罰の兵を京へ送ることにした。鎌倉軍の大将は、頼朝の異母弟で義経のもう一人の義兄範頼。が、名目上はあくまでも京へ年貢米を届けることであった。木曽義仲入洛以来、京に入る年貢は滞り、京洛は飢饉に陥っていたからだ。それはもちろん、たてまえ上のことであり、範頼、義経付き従う兵数万騎も当然武装している。九郎義経はここに初めて歴史に登場することになる。平家追討を夢見て鎌倉で半ば飼い殺し状態の義経には初陣となる戦であった。しかし、京へ向かう義経の心は晴れなかった。義経は道すがら郎党の武蔵坊弁慶に言った。「俺には鎌倉殿のやり方が解せぬのだ・・・」と。同士討ちがである。木曽は確かに源氏の同属である。源氏同士が力をたずさえて共に平家を討てばいいではないか。というのが義経の理屈である。確かに正論ではあるが、それはやはり時勢を知らない子供の論理である。弁慶は義経郎党の中でも多少は学のあるほうなので、義経に時勢を説明するのだが、どんなに説いても義経には理解できなかったようだ。義経にあるのはやはり「血の原理」、源氏か平家か、しかないのである。

●「旭将軍」
木曽兵は日増しに激減し、それに加えて鎌倉軍が京へ迫ってきている。焦る義仲は、法皇に頼朝追討の宣旨をせがんだり、平家がやろうとしたように法皇を連れて北陸へ立て籠もろうとするが、いずれも拒否されてしまう。もはや滅亡が目前までくるとと義仲の怒りは頂点に達し、御所に火を放ち法皇と後鳥羽天皇を幽閉してしまう。後鳥羽天皇とは、平家が西国に落ちる際に連れ去った安徳天皇の変わりに急遽即位させた言わば代理天皇であり、この時代天皇が二人いたことになる。いずれにせよ、御所に火を放つなど前代未聞のテロ行為であった。このとき、後白川法皇は奇妙な行動に出る。鎌倉の頼朝に義仲追討を命じておきながら、もはや滅亡目前の木曽義仲を「征夷大将軍」に任命している。これは、征夷大将軍に任命して義仲の目を自分から反らせようとした法皇の企みであった。結果的にこの企ては大成功する。源氏初の征夷大将軍となった義仲は大いに感激し、征夷大将軍のまま滅びる覚悟を決めると自ら「旭将軍」を名乗り、鎌倉軍を迎え撃った。

解説「征夷大将軍」
時代劇でよく耳にする言葉である。幕末期には「夷」とはすなわち外国勢力を指していた。しかし、「夷」とはそもそも、天皇に与しない他勢力を指す。平安時代末期のこの頃、天皇による統治は日本全国に及んでいたわけではないので、例えば奥州藤原氏やそれよりも最北の地は中央からみて「夷」であった。この「夷」に対する最大の軍事権を許されたのが征夷大将軍である。鎌倉幕府を樹立した頼朝もやがて征夷大将軍を務める。徳川家康以来歴代の将軍は征夷大将軍も兼任することになる。

文・魚釣梅安


考証 竜馬暗殺「近江屋へ来た男」

「序文」
竜馬暗殺犯については、ご存知の通り様々な諸説があり、歴史ファンや研究者の間でも未だに解けないミステリーとして取り沙汰されている。本稿では、数ある説の中の一説を取り上げ、考証してみたい。もちろん、これは一説のひとつであり、史実を断定するものではない。真相は今でも闇の中にあることは十分承知している。しかし、これはあらゆる状況証拠を検証してみて、最も真相に近いのでは?と筆者(梅安)が考えている説である。

「定説を疑え!」
慶応三年、十一月十五日。その日の京の街は冷え込みが厳しかったという。近江屋に潜伏していた、坂本竜馬と中岡慎太郎は時間にして午後九時頃、数名の刺客に襲われた。竜馬は、前頭部に刺客の初太刀を受け、刀を取ろうとしたたころ右肩に二之太刀を受け、最後に楯にした刀の鞘ごと三之太刀を前頭部に受け、これが致命傷となりその場で絶命した。 「脳をやられた!もう見えん!」 事件後、十七日まで危篤状態で在命した中岡の証言によると、これが竜馬の最後の言葉であったようだ。中岡は他にも刺客に関する証言をいくつか残しているが、それは後述する。

定説によれば、暗殺の下手人は京都見廻組組頭、佐々木只三郎とその一味によって行われ、維新後に暗殺の際に見張り役を務めていたとされる、元見廻組隊士の今井信朗が証言している。

明治三年。今井を取り調べた刑部省(長官=佐々木高行 土佐藩出身)は、伏見寺田屋で幕吏に取り囲まれた竜馬は、逃亡の際捕り方二名を殺害しており、今井らの行動を合法的な治安警察活動と認定。その後、明治五年、今井信朗は榎本武揚、大鳥圭介らとともに特赦釈免になっている。つまり、実際は戦犯(旧幕府軍=賊軍)としての実刑だけで、竜馬暗殺の罪状は事実上無罪となっている。

今井の証言の陳述書と裁判での詳しい詳細は、非公開とされ、明治政府は竜馬暗殺事件をここで幕を引いた。しかし、この顛末にはいくつか疑問が残る。今井が投降した明治三年には、元新選組隊士大石鍬次郎が同じく竜馬暗殺の嫌疑をかけられ、たいした取り調べもされずに処刑されている。にも関わらず、「自分が実行犯だ」と言っている今井は何故、無罪となったのか?一説によれば、今井の助命に最も尽力したのは、薩摩の西郷であったと言う。西郷は何故、一面識もなかったはずの今井を助命しようとしたのか?また、ここが重要なのだが、寺田屋襲撃以降、お尋ね者となっていた坂本竜馬だが、慶応三年のこのとき、幕府は竜馬をそれまでの不逞浪士から、薩長の暴発をとどめている男として違った見方をしてきた。つまり、竜馬は幕府にとってはすでに敵でなかったのである。

寺田屋後、指名手配となっていたが大政奉還の前後にはそれも解かれていた。これにより、下手人=見廻組説も新選組説も疑わしいことになる。では、このとき坂本竜馬を最も邪魔に思っていた組織はどこであったのか?

「大政奉還と薩摩の陰謀」
竜馬が抱いた大政奉還の構想はおよそ次の通りである。将軍慶喜に政権を朝廷に返上させる。天皇を中心とした新しい政府を樹立し徳川家は一大名として、新政府に参加させる。非戦論を説いたこの竜馬の構想は、どうしても武力討幕をして徳川の世を根こそぎ排除し薩摩藩を中心とした諸雄藩連合による天皇政権の確立を目指す、大久保、西郷らにとっては迷惑千万な草案であった。 薩長同盟から足並みをそろえてきた両者であったが、ここにきて亀裂が生じ始めたのである。

では、薩摩が直接手をくだしたのだろうか?薩摩の刺客と言えば、一番に思いつくのが人斬り半次郎こと中村半次郎である。中村半次郎は示現流の使い手であった。示現流には「二之太刀なし」と言われるように、凄まじい気合とともに初太刀に全霊を込め、相手の身体を真っ二つに斬り断つほどのものである。しかし竜馬は三之太刀まで受け、落命しており、中岡慎太郎は十一の刀傷を受け、なおも刺客は仕損じている。プロの暗殺者としては、いささかお粗末な仕事ではないだろうか?このことから、刺客は「剣は使えても暗殺そのものには不慣れな人物」という、推理が成り立つ。それに加えて、半次郎は竜馬、中岡と面識もあり、もしも仕損じた場合に事が露見すれば大事である。中村半次郎はまず容疑者リストからはずされるであろう。

薩摩にとって竜馬は、土佐藩との友好関係もあり、うかつには手が出せない、「斬りたくても斬れない男」と位置づけられていたのではないだろうか。では、幕府側(見廻組、新選組)でも薩摩でもないとしたら、その中間に位置する組織ならどう動いただろうか?ここにひとりの男の名が浮上してくる。元新選組参謀にして、高台寺党御陵衛士党首の伊東甲子太郎である。

「御陵衛士への疑惑」
新選組から離脱し、御陵衛士を名乗った伊東らの金銭的な面倒を見ていたのは薩摩藩である。伊東としては、新選組を離れ会津藩という後ろ盾を失った今、薩摩に正式に取り入ろうと画策したであろう。しかし、元新選組という肩書きが仇となり、薩摩からは金子の援助はあっても、全幅の信頼を得るには至らなかった。策士の伊東のことである。それならば、竜馬の首を手土産に、と考えたのではないだろうか?その後、伊東は近藤勇暗殺も計画していたようである。あるいは、竜馬暗殺を新選組の仕業に捏造して、土佐の海援隊を新選組にけしかけるといったことまで計画していたのかもしれない。(これは、天満屋事件として実際に起きている)暗殺の前後、伊東の行動は不可解であった。十一月十日には、近江屋の竜馬の元へ藤堂平助を連れて訪れており、「あなたの命を狙う者(見廻組、新選組とも)がいるので気をつけるように」と忠告している。これは、暗殺の前に竜馬の様子と近江屋の間取りを下見したのではないだろうか?

暗殺の直後、報を聞いた伊東は現場に急行しており、刺客が落していったとされる刀の鞘を新選組の原田左之助の物だと証言している。もうひとつの物証、現場にあった料亭「瓢亭」の下駄がある。料亭「瓢亭」は、新選組の馴染みの店であった。いずれも、新選組に罪を着せる工作と考えられる。伊東は、報を聞きつけてすぐに殺害現場に駆けつけている。ということは、現場のすぐ近くにいたことになる。また、刺客が暗殺に行くのに音のする下駄を履いて行くだろうか?刀を納める鞘を忘れてきたことも、ちょっと信じがたい。

以上のことから、伊東への疑惑は極めて高くなる。しかし、結論から言うと伊東は暗殺の指揮を取り現場付近に潜んでいたと思われるが、実行犯にはいなかったと筆者(梅安)は考えている。では、実行犯は誰であったのか?

「斉藤一は加わっていたか?」
浅田次郎氏の小説「壬生義士伝」にも、竜馬暗殺犯に御陵衛士説が採用されており、新選組から御陵衛士へ間諜として送り込まれた、斉藤一を「竜馬を斬った男」として書かれている。なるほど、斉藤は御陵衛士においても一番の使い手と考えられ、新選組の中でも数々の内部粛清に荷担してきた。暗殺犯としてこれほど、ふさわしい人物もいまい。斉藤一が竜馬暗殺犯だとしたら、それこそ歴史ファンや研究者でさえ腰を抜かすほどの驚愕の事実となるが、残念ながらこれは有り得ない。斉藤一は、暗殺の五日前(伊東と平助が竜馬を訪ねていた間か?)にすでに伊東の箪笥から、五十両の金子を持ち出して御陵衛士から脱走し、紀州藩公用人三浦久太郎の元に身を潜め、十八日に近藤に呼び戻され、新選組に帰隊している。

実行部隊にいたのは、おそらく御陵衛士の毛内有之助、服部武雄あたりではなかったろうか。いずれも、御陵衛士内では、折り紙付の使い手であった。もしかしたら、藤堂平助も加わっていたのかもしれない。薩摩の中村半次郎は、新選組離脱後の彼ら(御陵衛士)の面倒を見てきたので、伊東とともに現場付近に潜み、暗殺の指導をした可能性も考えられる。

「密約」
話を明治五年に戻す。竜馬暗殺を裏で糸を引いた、大久保、西郷は、「見廻組に竜馬暗殺の罪を被ってもらう。その代わり、お前は助命してやる」といった密約を今井に持ちかけた。こんな説は、成り立たないだろうか?晴れて釈放となった今井信朗、その身柄は旧徳川将軍家の領地となっていた静岡藩に引き取られ、牧之原の奥の小豆沢という谷間に身を隠すように住んでいた。竜馬暗殺の報復を極度に恐れ、家の周囲に穴を掘りいざといときには大井川の川原に脱出できるように工夫していたという。

「中岡慎太郎の証言」
竜馬暗殺犯は、薩摩が黒幕となり伊東甲子太郎と御陵衛士による犯行である。あらゆる状況証拠が物語るこの説にも、穴がないわけではない。近江屋の襲撃から二日間在命した中岡慎太郎の残した証言が、いささか不可解なのである。  刺客は、竜馬、中岡訪問の際「十津川郷士」と名乗った。刺客は暗殺の際、伊予の言葉「こなくそっ!」と叫んだ。刺客は、中岡には止めを刺さず「もうよい!もうよい!」と言って引き上げて行った。刺客の放った、「こなくそっ!」という伊予言葉と現場に落ちていた刀の鞘から、新選組の原田左之助が真っ先に容疑者リストに上がったのは有名な話だが、「こなくそ(この野郎の意)」という言葉は、土佐地方の一部でも使われており、刺客に襲われた際に竜馬が放ったこの言葉を、薄れゆく意識の中で聞いた中岡が刺客の放った言葉だと勘違いした、という考えは少し強引であろうか。  中岡慎太郎は襲撃直後、命は取り留めたが重体であり、危篤状態で二日間を過ごしたと言われている。そこまで、詳細な証言ができたとは考えつらい。彼の証言そのものが、何処かで捏造された可能性も考えられる。

「そして、新時代へ・・・」
竜馬暗殺犯は誰か?あらゆる可能性を検証してみたが、真相はやはり闇の中にある。確かなことは、慶応三年(1867)のこのとき、坂本竜馬は死んだということだ。竜馬の死後、歴史はさらに動乱の時代へと進み、やがて新時代を迎えた。 「天に意思がある。としか、この若者の場合、思えない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした」 (司馬遼太郎 著「竜馬がゆく」より)

参考文献 「龍馬の謎」 加来耕三 「坂本龍馬ー隠された肖像ー」 山田一郎 「坂本龍馬の謎」 新人物往来社 「龍馬暗殺 完結編」 菊池明 「竜馬がゆく」 司馬遼太郎 参考HP 「歴史館 動乱の章」            

文・魚釣梅安


Ifの維新史 「寺田屋」

慶応二年、一月二十三日。
この二日前、「薩長同盟締結」の偉業を成し遂げた坂本竜馬は、伏見の寺田屋に潜伏していた。その夜、伏見奉行所の捕吏に取り囲まれ襲撃を受けている。竜馬は、前年に高杉晋作からの上海土産として送られた短銃を発砲して脱出に成功し難を逃れた。
このとき、新選組は奉行所からの要請で、周辺の警備を担当しており、これが歴史上、新選組と坂本竜馬が最もニアミスした瞬間である。

「もしも寺田屋を襲撃したのは、捕吏ではなく新選組であったなら?」
竜馬ファンの夢を壊すようで、申し訳ないが竜馬が北辰一刀流の免許皆伝で剣の達人であった、というのは司馬遼太郎の創作である。坂本竜馬が千葉周作の実弟、千葉重吉の「小千葉道場」で、北辰一刀流を学んだという事実は動かしがたいが、竜馬が手にしたのは薙刀(長刀)の初伝目録だけである。
したがって、新選組が寺田屋を襲撃していれば、坂本竜馬は予定より早く命を落としていたかもしれない。しかし、竜馬には剣の代わりに短銃があった。あるいは、近藤勇、土方歳三、沖田総司のうちの誰かが、竜馬の銃で撃たれていたのだろうか。

今回は、筆者(梅安)の想像力を欠きたてて、少し遊ばせてもらうことにする。あまりにも突飛な発想で恐縮だが、虚仮の一念に免じてお許しいただきたい。

「仮想対決!土方歳三 対 坂本竜馬」
慶応二年、一月二十三日深夜。
土方歳三は、伏見奉行所の捕り方を含む隊士約三十名を引き連れて、濠川沿いを伏見の船宿「寺田屋」へと急いでいた。つい先ほど、探索の島田魁から坂本竜馬が寺田屋に潜伏しているという報を受けたのだ。
この二日前、坂本竜馬の尽力により薩摩藩と長州藩が、討幕のために手を結んだ。世に言う「薩長同盟」が成されたのである。当然ながら、この両藩が結託することは幕府に取って痛手となる。討幕に向けての、キーマンとなった土佐浪士坂本竜馬は、御上にとっても見逃せない存在となっていた。
この夜、伏見の街は騒然としていた。伏見奉行所は「坂本捕縛」の命を出したからである。新選組と見廻組にも応援要請がなされ、奉行所の捕吏と合わせておよそ一千人を動因しての大掛かりな探索となっていた。
「坂本は、俺が捕らえてみせる!」
寺田屋へと急ぐ、歳三の気は焦った。
新選組は、池田屋を襲撃したときと同じように、近藤隊と土方隊と隊を二分させ、探索にあたっていた。池田屋のときは、近藤に先を越されてしまう形となった歳三、「今度こそは、俺が!」という気負いが、歩を早めていた。
歳三が、近藤に先を越されたくない理由はもうひとつあった。近藤勇は、以前から坂本竜馬に関心を示していたのである。
言うまでもなく、近藤の思想は親幕であり揺るぎないものだが、同時に近藤には親暴、廃暴に関係なく時代の先端を行く者に憧れを抱く癖があった。今の言葉でいうなら、ミーハーと言うのだろうか。田舎の純朴な青年が、都会の華々しい文化人に憧れるような格好である。そもそも、近藤らが京の地へやってきたのも、清河八郎のペテンを鵜呑みにし、乗せられる形となった。もっとも、これが元で京で新選組を立ち上げることができたのだが、これは余談。

こうした、近藤の無節操なミーハーぶりは時々、歳三をイラつかせた。
つい二日前、「薩長同盟」の報を聞いたときも、わざわざ歳三を自室へと呼び出し、「犬猿の両藩の手を結ばせるとは、敵ながらあっぱれ!」と坂本竜馬を誉めちぎっていた。近藤は、立場を忘れ、こんなことまで言い出した。
「トシ! 一度、坂本竜馬という男と腹を割って話してみたいものだな。藩や形にとらわれない自由な御仁と聞く」
これには、歳三も呆れてピシャリと答えた。
「近藤さん! 新選組局長と言えば、今や幕府でもちょっとした大名格だ。敵をたたえるのもけっこうだが、そういう発言は今日この場限りにしていただきたい!」
「う、うむ・・・わかっておる!」
歳三にたしなめられ、近藤も自分の立場を思い出した。勿論、近藤がこんなことを言い出すのは、歳三と二人きりのときだけではあるが、近藤勇とて薩長同盟により天下が動き出そうという様を、彼なりに感じ取っているのである。
伏見奉行所で、隊を二分した際に近藤は言った。
「トシ、殺すなよ。奉行所からは、坂本は捕縛せよとの命令だ」
歳三は答えた。
「解っているさ。でも、手向かいいたせば容赦はしないぜ。近藤さんこそ、気をつけてくれ。坂本はいつも短銃を忍ばせているそうだ」
「ああ、それには及ばん」
そう言って別れた。
歳三が近藤よりも先に、竜馬を捕らえたいという気持ちにはこうした背景もあったのである。

その頃、寺田屋の二階では、坂本竜馬と長州藩士三吉慎蔵は薩長同盟の成功を祝い祝杯をあげていた。
しんしんと冷える夜である。前日には季節はずれの大雨も降った。国事に疾走する気苦労からか、竜馬は風邪をこじらせドテラを羽織っていた。しかし、前日には、恋人おりょうとの借り祝言も済ませ、このときまで竜馬にとってはめでたいことづくしであった。
午前三時頃、ちょうどそのときである。
土方歳三率いる、新選組は寺田屋にたどり着いた。同行していた、伏見奉行所の与力、由良常二郎は、「助勢を待つべきだ」と主張したが、もとより歳三にはその気はない。一機に踏み込む決意を固めていた。 このときの様子を、就寝前の遅い湯に浸かっていたおりょうは、格子戸から目撃している。おりょうは、風呂から飛び出ると素っ裸のまま、二階へと駆け上がり、竜馬に急を知らせた。素っ裸のおりょうには驚いたが、竜馬は冷静に、おりょうに着ていたドテラを着せると、
「おりょう、すまぬがこのまま薩摩藩邸に走ってくれ」と言って、裏口から逃がした。
おりょうの機転により、襲撃を察知した竜馬と三吉は態勢を整える余裕があった。三吉は、四尺ほどの手槍を用意した。三吉慎蔵は、種田流兵法の達人である。
やがて、ドタドタ大勢が階段を駆け上がる音が聞え、襖戸がカラリと開いた。
飛び込んできたのは、土方歳三。歳三は池田屋で近藤がそうしたように、隊長自ら死番を勤めたのだ。
「新選組である!不審の儀があって尋問いたす。奉行所まで同行願おう!」
歳三が言った。
「わしらは、薩摩藩士じゃきぃ。藩邸に問い合わせてくれんかの?」
竜馬が応えた。
手槍をかまえた三吉は、小声で竜馬に告げた。
「新選組の土方歳三です」
「ほほう、おまんが鬼の副長か?お目にかかれて嬉しいぜよ!」
竜馬は、にっこりと微笑んだ。
「坂本さん、ここはわたしにまかせてお逃げください!」と、三吉。
「おいおい、三吉君、そがぁなこと言わんと、わしにもひと暴れさせとうせ・・・」
竜馬が言った。
食えぬ男だ。歳三は思った。土佐言葉丸出しで、「薩摩藩士」と言ってのける厚顔。四面楚歌のこの場に置かれて、竜馬は笑みまで浮かべている。まるで、この状況を楽しんでいるかのようだ。
「間違いありません。坂本です」
島田が歳三に、告げた。 斬る。斬るしかない。歳三は、心に決めた。
「手向かいいたせば容赦はせん!」
歳三は抜刀すると、二人に襲いかかった。
そのときである。
懐から、短銃を取り出した竜馬はすかさず歳三の頭部へ目掛けて一発を放った。
すさまじい銃声とともに弾丸は歳三の額にある鉢金を弾き飛ばし。幸い鉢金のおかげで致命傷にはいたらなったようだ。しかし、歳三はその場でしりもちをつく格好となった。
竜馬は、続けて二発、三発と短銃を撃つ。歳三のすぐ後ろにいた、由良常二郎が腹部を撃たれて倒れ、もう一人の男(姓名不明)が胸を撃たれてどうと倒れた。
竜馬はすぐに、五発の弾丸を撃ち尽くしてしまった。新選組隊士も捕吏も初めて目にする短銃の威力に驚き容易には襲ってこない。歳三だけが、弾切れの隙をつき立ち上がると再び襲いかかってきた。
「おのれっ!」文字通り、鬼の形相である。
歳三は上段から竜馬へ太刀を振り下ろす。竜馬はその太刀を握っていた短銃で受けた。
ガチンッ、という鈍い音とともに歳三の刀は根元から折れてしまった。同じに竜馬は、左手親指の付け根を刀の刃でざっくり切ってしまった。
歳三は、折れた刀を捨てると竜馬を突き飛ばし、馬乗りになって顔面をしたたかに殴った。
「楽しい!」歳三は思った。天性の喧嘩師の血が騒ぐ。こんな高揚感は京へ来てからは初めてだ。
それを見て歳三の加勢に入ろうとする新選組隊士。こちらは、三吉慎蔵が手槍で相手をした。階下には大人数がいるのだが、階段と部屋の入り口は狭く一度に大勢は入ってこれない。三吉は入り口を手槍で封じた。
歳三に殴られる竜馬。その顔には鼻血が滲んでいた。だが、竜馬とて負けてはいない。短銃の台尻で歳三の顔を横殴りにすると、柔術の技で敵を後方へと投げ飛ばした。ひるんだ歳三の前、そこへ三吉が割って入る。
「坂本さん!お逃げください!」
歳三は脇差を抜き、相手を三吉に切りかえる。竜馬はこのうちに短銃へ弾を込めようとするのだが、左手の出血でうまくゆかず滑らせて弾倉を落としてしまう。歳三の助勢へ他の隊士が二階へと上がってきた。意を決した竜馬は歳三へ向け、
「こっちだ!赤鬼!」と怒鳴った。
歳三がその声に振り向くと、竜馬は歳三の顔面に短銃を思いきり叩きつけた。顔面に見事直撃を受けた歳三、たまらず眉間を押さえた。
その瞬間、竜馬は「三吉! 逃げるぞー!」と言うと、寺田屋の二階の窓から下に流れる濠川へと飛び込んだのだ。三吉もすぐ後に続く。 「何をしている!追えー!」 歳三は眉間を押さえながら、後方にいる隊士たちを怒鳴るとその場に昏倒してしまった。よほど当り所がよかったらしい。
大石鍬次郎が真っ先に飛び込み、林信太郎が続いた。島田が歳三のもとに駆け寄ってきた。
寺田屋女将のお登勢から傷の手当てを受け、歳三は気を取り戻した。銃弾を受けた二人の男はすでにこときれていた。 半刻ほどすると、全身ずぶ濡れとなった大石と林が、ぶるぶる震えながら歳三の元に戻ってきた。二人の話によると、竜馬の姿はついに見つからなかったそうだ。前日の雨で川は増水し自分たちも溺れかけた。仮にどこかに流れ着いても、この寒さでは、まず生きてはいまい。ということだった。 いいや、必ず生きている。坂本はこんなことで命を落とすような男ではない。歳三には、不思議とそんな確信があった。 ほどなくして、報せを聞きつけた近藤勇も寺田屋へやってきた。歳三のもとにかけよると、
「トシ、大丈夫か?」と、心配そうに訪ねた。
「・・・・すまない。取り逃がしたようだ・・・」 歳三は、がっくりと肩を落して言った。
「なぁに、おめえさんが無事でよかったぜ!」
近藤は、そう言って歳三の肩を叩いた。
なんのかのと言いながら、歳三もそんな近藤が好きであった。
遠くの方から、夜明け前を告げる時の鐘が聞こえてきた。

「その後の歳三と竜馬」
竜馬が射殺した伏見奉行所与力、由良常次郎は微禄とはいえ暦とした幕府の役人であった。そのため、竜馬は幕府に取って疑わしき人物(任意同行)から完全な指名手配犯となってしまった。
しかし、当の竜馬はそんなことはどこ吹く風。寺田屋から逃れるとしばらくは薩摩藩邸に匿われていたが、二月になると怪我の療養も兼ね、おりょうとともに薩摩の霧島へ旅行に出かけている。高千穂峰の山頂に立った竜馬は、それに振れると神の怒りに触れるという「天の逆鉾」を抜いてみせると言って聞かず、たしなめるおりょうを困らせた。
このときの二人の旅行が後に、国内初の新婚旅行だと伝えれている。
同じ頃、新選組屯所の縁側に座った歳三は、竜馬が投げ捨てていった短銃をしげしげと眺めていた。
なるほど、これならばいかなる剣の達人といえども簡単に仕留めることができる。坂本という男はこうした新兵器をいち早く取り入れ使っていたのか。
歳三もやがて、洋式の銃火器や洋式兵法を戦に取り入れていくことになる。
「坂本竜馬か。新しい時代を築くのは、ああした男かもしれんなぁ」 歳三は、竜馬のことを思った。
しかし、もう一度坂本と合間見えれば、やはり俺は、あいつを斬るだろう。それが我らの宿命(さだめ)。それが、土方歳三の行き方なのだ。歳三はそんなふうに考えていた。
歳三がその後、この短銃を実戦でつかったかどうかは、記録に残されていない。しかし、函館の地で戦死後、日野の土方家に送られてきた遺品の中には、一丁の連発式短銃があり、戦前までは土方家に保管されていたそうだ。
寺田屋で使用したとされる歳三の鉢金は、今も土方歳三資料館に現存している。

参考HP「歴史館 動乱の章 新選組

「後記」
尊敬する司馬遼太郎先生の作品には遠く及ばないが、「燃えよ剣」の土方歳三と「竜馬がゆく」の坂本竜馬を一度闘わせてみたかった。そんな一念から、本作を書いてみた。
司馬文学ファン、竜馬、歳三ファン、研究者の方々にはお叱りを受けそうな内容だが、作中の歳三も竜馬もわざと少し格好悪く書いてみた。これは、命を張った闘いの場というのは実際は時代劇のように格好のいいものではなく、もっとドロ臭いものなのでは、という筆者(梅安)の解釈である。 言うまでもなく、これは史実に基づいたフィクションであり、実在の団体個人の名称とはいっさい関係がない。と、いうお決まりの断りをしなければならない。しかし、どこまでが史実でどこまでが創作か?という種明しも敢えてしない。大河ドラマの設定とは違っているが、大河ドラマ「新選組!」の番外編として、お楽しみいただきたい。
文・魚釣梅安

再び日野!

6月下旬、再び日野へ出かけた。今回の目的は、土方歳三の生家(土方歳三資料館)と万願寺で行われた天然理心流演武を見学することである。でも、今回は徒歩ではなく車での移動とした。

5月の連休に甲州街道を歩いて行ったときは、とても長く感じたが、車ではあっという間に八王子から日野へと着いた。  さて土方資料館。実を言うとここを訪れるのはこの日が三度目である。だが、一度目は休館日で入れず、二度目は団体客が列をなし断念。。。土方資料館とはいえ、現在でも土方家の御子孫の方が住まわれる、普通のご自宅の一部を資料館として開放しているため、開館日は土日中心となり、時間も限られているのは無理からぬことだ。

開館時間の11時より、1時間ほど早く着いた。玄関前にはもう一組の親子連れの方と開館を待っていると、玄関から出てきたのが館長で、歳三の兄喜六の御子孫にあたる(正確には土方家に嫁いでこられた)土方陽子さん。 「外は暑いですから、どうぞ」 と少し早めにオープンしてくださった。
閑静な住宅街の中、東京の住宅事情から考えるとかなり広い敷地に歳三がかつて少年時代を過ごした家はあった。建物は老朽化が進み、平成二年に現代風家屋に建て替えられているが、その当時の大黒柱や長者柱は資料館正面の梁や柱に施される工夫がされていた。幼い歳三は、風呂上りにこの大黒柱を相手に裸のまま相撲の張り手の稽古をしていたのだそうだ。
そして、資料館脇には歳三が十七歳のときに植えたとされる矢竹が今も残されている。 「我壮年武人トナッテ名ヲ天下ニ上ゲン」かつて戦国武士たちは、いつでも戦に出られる準備のために自宅の庭に矢竹を植えた。この矢竹からも武士に憧れを抱いた少年の夢が感じられた。
資料館では、歳三の位牌や新選組の誠の袖章、歳三が行商に使った「石田散薬」の薬箱などの展示がなされていた。しかし、一番に目を引くのがトシの愛刀「和泉之守兼定」の刀身である!

この刀を歳三が腰に刺していたのだ。そう考えると背筋が震える思いがした。 だが、この刀についてぼくは少し恥ずかしい勘違いをしていた。兼定は市村鉄之助が歳三の写真とともに函館から日野へ持ちかえったとばかり思いこんでいた。実際は写真はそうだが兼定は函館戦争終結後、その他の遺品とともに送り届けられたものらしい。土方陽子さんに間違いを指摘され、冷や汗をかいてしまった。。。

この勘違いの原点は小説「燃えよ剣」である。ぼくが歳三と最初に出会ったのもこの小説であった。それにしても、歴史研究を始めてしばらく発つのに、未だに司馬マジックが抜けないでいたとは。。。恐るべしは司馬遼太郎!(笑)
「歳三の善行」土方陽子さんのお話から。
函館における歳三には、いくつか善行が伝えられています。そのひとつに軍資金不足で悩む函館政府総裁の榎本武揚は、函館市民から寄付を募る提案をしました。これに「我々は函館政府を名乗り、ただでさえ市民に戦の恐怖を与え迷惑を掛けている。その上、そんなことをすれば汚点として残ってしまう」そう言って反対したのが土方歳三でした。
それでも、榎本は税金という形で強行します。歳三はその際も「貧しい農家などからは取ってはならない」と反対しましたが聞き入れられませんでした。その後、歳三は馬にまたがり、貧しい家家へ一件づつお金を返してまわりました。かつては、鬼の副長と恐れられた歳三でもこんな一面があったのです。
資料館を後にすると、そこから徒歩5分ほどの場所にある石田寺へ向った。ここには土方歳三のお墓がある。とはいえ、この墓は引き墓で歳三が実際に埋葬されている訳ではない。歳三の遺体が官軍の手に渡れば、近藤勇のように晒し首とされる可能性があった。そのため、函館市内のどこかへ密葬され戦乱のどさくさでその場所は現在も特定されていない。静かに眠る歳三の墓碑に向い、そっと手を合わせた。
土方歳三の墓参を済ませると、午後からイベント「フェスタ・イン・日野」のメイン会場である万願寺へ向った。現在も残る「天然理心流演武」を見学するためである。

今回演武を披露してくださるのは、大河ドラマの紀行にもご出演なさった、平井泰輔先生と三鷹道場門人会の皆さんである。詳しくはまだ調べていないのだが、現在伝えられる天然理心流は、門人会の平井先生ともう一派、保存会というのがあるそうだ。理心流は、近藤勇の死後しばらくは宗家不在となり、維新後に多摩地方に残された何人かの師範たちによって伝えられ、系統も何派かに別れてしまったらしい。

演武の前に平井先生から、天然理心流についての説明がなされた。流祖は近藤内蔵助で、天真正伝神道流の流れをくみ、幕末の比較的早い時期に派生した流派。元々は、柔術、棒術、気合術を含んだ古武道の系譜を継いでいたが剣術以外は二代目の近藤三助で途絶えたそうだ。しかし、その他の技は剣術の技と融合して生かされているのだそうだ。

まず始めに、木刀による組立ちが披露された。木刀はもちろん、大河ドラマにも登場したバットのように太い独特のものである。重さは真剣の約二倍(2キロ)ほどあり、柄の部分は鶴の卵の太さだとか、「鶴卵の如く握れ」と口伝にもあるようで、重量と太いグリップの木刀を稽古に使えば当然、握力と膂力が養われる。この木刀、演武の後にぼくも持たせてもらったが確かに重い!形はいささか不恰好だが、天然理心流が「田舎剣術」とバカにされながら、実戦には無類の強さを誇ったとされる秘密はこの木刀にあるのだとぼくは感じた。
組立ちは、木刀を持った二人の門人の方が少し遠い間合いに対じし、「ヤー!」という凄まじい気合を込めながら走ってきて、ガシッ!ガシッ!と二度木刀を叩き合わせてから組立ちの技に入った。技は一瞬で決まる。凄い迫力だ。

平井先生によれば、演武では木刀を合わせるのは二回と決めているが、稽古では何度叩き合ってもいいそうだ。何十回でも何百回でも叩いて、一瞬の隙が生じたときに技に入るのだとか。なんだか、相撲の立ち合いと似ている。
抜刀術は、数人の門人が横一列に並び、客席に向って披露してくれた。ぼくは最前列で観ていたので、抜刀する瞬間には思わず身構えてしまった。(笑) その前の木刀の組立ちもそうなのだが、理心流でのとどめの技は突き技が多いようだ。そして、この流派には他の古流派同様に受け技がない。すべての技は攻撃に通じていて、失敗すれば死あるのみ。 稽古においても、実戦のような「気組み」が大事とされていた。幕末当時の新興流派である北辰一刀流の合理性に比べれば、昔気質の「職人の剣」という印象を受ける。

最後は、巻き藁を使った試し斬り。巻き藁は、上から三箇所を藁ひもで縛られ、上段は首、中段は胴、下段が腰と見立てて斬っていく。一番難しそうだったのは「龍尾の剣」という技で、上段と下段を斬り宙に浮いた中段の胴部分の巻き藁を斬るという。曲芸のような技だが実際はかなり難しく成功率は三割と平井先生もおっしゃっていた。何人かの門人の方が挑戦するも何度も失敗。。。最後にやっと成功して、客席からは拍手喝采を受けていた。
前回見学した、刀道連盟さんの演武のような「見せる」パフォーマンスは、多少少ない気がしたが気合の声とともに刀を振るう現代の剣士たちの目は、するどく手に汗握る迫力があった。

演武が終了すると、師範の平井先生と少しお話ができた。三鷹道場での改めての稽古の見学と取材を申し入れたところ快く受けてくださったので、近いうちにまた訪ねてみようと思う。天然理心流のさらなる詳しいレポートがお伝えできるかもしれない。

殺人の術として派生した剣術の一流派が、現在も伝えられているのは何故だろう?「天然理心流」という流名の中の「心」という一字に着目してみた。 「剣は、人を斬ることが目的ではない。己の心を鍛えるものだ」 大河ドラマで、香取勇が言っていた台詞が妙に納得がいった。
文・魚釣梅安 / 写真提供 眞鼓

第30回総司忌

6月20日(日曜日)、六本木専称寺で開催された「第30回総司忌」に出かけてきた。普段は墓地には、寺と檀家と無関係の人は入れない。そのため前回、総司の墓参に訪れたときは塀越しからのお参りであった。でも、この日だけは総司ファンのために墓地へ入ることが許され、直接沖田総司と会うことができるのである。

  

午前11時からの開催ということなので20分ほど早めに、現地へ赴くと予想通り専称寺に面した通称テレ朝通りには長蛇の列ができていた。そのため受付けも予定より早めに始まっていたようである。

この日の東京地方は、梅雨も中休み朝から晴れで蒸し暑さもすごい。総司が逝った日もこんなお天気だったのだろうか?最後尾に並び、そんなことを考えていた。参列者はやはり女性が八割ほどをしめているようだ。驚いたのは、バスツアーのバッチをつけたおばさんまでいらした。

境内に入ると、紫色の紫陽花が咲いていた。紫は総司が好きな色と伝えられている。普段はひっそりと眠っている総司も、この日ばかりは「女性」という花々に囲まれる。喜んでいるのだろうか? 照れて困っているのだろうか?

本堂で焼香を済ませると、裏手にある墓地へ。赤い屋根に守られるように「沖田宗次朗」と刻まれた墓石がある。参列者は、思い思いに祈りを捧げていた。ぼくは、甲州街道を歩いて行った旅の報告をして冥福を祈った。

午後からは別会場で新選組研究者である釣洋一氏の講演が開かれた。釣氏は新選組にまつわる数々の新しい発見をした人である。最も有名なのが、「島田魁日記」の発掘だ。この発見により、それまでの通説であった「新選組」の名称が文久三年三月の上洛したときという説を覆し、同年八月十八日の政変のときより「浪士組」から「新選組」となるという真説を世に出した人である。

講演の前に、沖田みつの直系のご子孫、沖田整司氏や斉藤一、榎本武揚の直系の方々の紹介があった。当たり前ではあるが、幕末のビッグスターたちの子孫とはいえ、まったく普通の人たちである。が、そう聞くとついつい色メガネで見てしまうのが我々マニアの反省するところであろう。。。(苦笑)

斉藤のご子孫、藤田氏から「一の写真がみつかったので、コピーを新人物往来社さんへ渡しました」という発言があった。斉藤一の写真といえば、西南戦争のときに参加した官軍抜刀隊の集合写真が世に出ているが、それ以外はぼくは知らない。もしかしたら、新しい斉藤一の写真が近々公開されるかもしれない。

さて、釣氏のお話。歴史研究家の講演と聞いて少し身構えていたが、何も小難しい話をするでもなく、ときどきしょうもないオヤジギャグを言っては笑いを取り、ざっくばらんな講演会となった。講演の中で少し気になる部分があったので、抜粋して紹介と解説を!

「古高俊太郎への拷問」
釣氏「土方歳三が古高俊太郎に行った辛辣な拷問。これは事実ではありません。司馬遼太郎さんもそのことを知っていたので、(燃えよ剣)の中でもわざとこの個所を書いていません」 これについては、ぼくも疑問を感じたが他の研究者の方に聞いてみたところ、「古高捕縛が元治元年6月5日の早朝、池田屋の変がその夜である。新選組は6月1日に中間風の男を捕らえ拷問の末、討幕派の策謀のほぼ全容を自白させている。5日早朝には会津藩へ協力要請もしている。土方の拷問は鬼の副長を鮮明にするためにどこかで創作された可能性が高い」 とのこと。つまりは、古高への拷問は「土方歳三がそんなことをするはずがない」といった人情論ではなく時間的な問題で否定できるのである。この件については、さらに詳しく調査中!

「子母澤文学はミステリー」
釣氏「子母澤氏の創作ではないか?といわれている作品にはすべて文中に創作だとわかるような仕掛けが施されている。この仕掛けを探してみると子母澤作品はまるで推理小説のように楽しめる」 この話を聞いてぼくも、「ああ、なるほど!」と思った。子母澤寛氏は、創作をあたかも史実であったかのように書くテクニックは郡を抜いているが、確かに文中に謎を解く鍵が隠されている。釣氏の言うように、ミステリーのような楽しみがある。このレポートを読んでいる諸姉兄もこの謎にチャレンジされてはいかがだろうか?(ヒントは、作品の中に点と線とが繋がらない個所があります)

講演も終わり、最後に抽選会による新選組グッズのプレゼントがあった。ぼくは、総司のお墓のポストカードが当たったが、色んな意味でまず使えないポストカードである。(笑)
文・魚釣梅安 / 写真提供 眞鼓
追記
毎年行われていた「総司忌」ですが、主催しているのは専称寺ではなく、新人物往来社です。申し込みもこちらです。「お寺には直接問い合わせをしないでください」というルールがあったのですが、守らない人が何人もいてお寺からもクレームが出されました。そのため、来年からの「総司忌」は新選組友の会の会員に限定して開催されるようです。残念な話ですね。。。  

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街道をゆく

天然理心流を教える、試衛館は市谷甲良屋敷(現市谷甲良町)にあったと言われている。甲良屋敷は武家屋敷の多い地域であったが、武州の田舎剣術ゆえ通ってくる門人は町人や中間、伝通院の寺小姓くらいが多く、多摩方面への出張教授は道場の貴重な収入源であった。大河ドラマにも近藤勇が甲州街道を下り出稽古に行くシーンは何度か登場している。

今回ぼくは、試衛館跡地から甲州街道をとおり多摩まで歩いて行ってみることにした。勇や総司、彼らが歩いた道のりを車やバイクなどではなく、自分の脚で歩いて行ってみたかったのだ。酔狂と言えばこれほどのこともそうないであろう。

距離にして約十一里(40数キロ)、フルマラソンと大体同じくらいの距離である。江戸の昔とは違い、車や信号機が多数ある現在の甲州街道、歩きなれない現代人の脚でどれほど時間を有するのか検討もつかなかったが、GWの二日間の日程で実行した。

五月一日、一日目

朝、スタート地点となる試衛館跡地へ向った。試衛館の正確な場所は長いこと謎とされ、研究者の間で議論されていたが、最新の研究では、新宿区牛込柳町25番にほぼ確定した。都営大江戸線「牛込柳町駅」から徒歩三分の距離にある。

木造アパートと狭い路地、マンションに挟まれた時間貸し駐車場。都会ならどこにでもあるような風景の中にぽつんと「試衛館跡」という小さな碑が建っている。今はない、道場の奥から剣士たちの掛け声が聞えてきそうだ。

路地の奥には、古ぼけた稲荷神社の小さな祠があった。正確な考証はまだなされていないが、このお稲荷さん、どうやら近藤屋敷の庭にあったものらしい。試衛館では、師範代が出稽古に出る日、道場の門を八の字に開き、門わきに定紋を打った高張り提灯をかかげ、道場主が紋服を着て式台まで送り出すという慣例があったそうだ。高張り提灯も紋服を着た勇もいないが、お稲荷さんに手を合わせ、
「近藤先生、井上さん、土方さん、沖田さん、行ってまいります!」
と挨拶をして、午前八時にスタートした。

今回は、出稽古の再現ということなので角材を削って自作した木刀を持っての出発である。勿論、そんなものを抜き身で持ち歩けば、たちまち御回りさんに御用!となりそうなので袋に入れての携帯である。

新宿は坂の多い街だ。剣士たちはこの坂を上り下りして、試衛館へ通ったのだろう。内藤新宿(西新宿)の高層ビルに送り出されると、ひたすら甲州街道を西へ西へ歩いた。初夏の日差しが厳しい。一時間に一度は給水と休憩を取らなくては倒れてしまいそう。現代人のなんと情けないことか。

今では、頭上に首都高4号線が走り、片側二車線の車の往来も激しい甲州街道だが、当時はどうだったのだろうか? きっと宿場や茶店が軒を並べ、行商人や駕籠、飛脚たちが往来していたことだろう。例えば、沖田総司などは手甲、脚絆で四肢をかため、刀には柄袋をして、この時期なら袴ははかずに尻をからげて、この道を歩いていたのだろうか。想像をふくらませて総司とともに歩いた。

昼過ぎに布田宿(現調布市布田)、から旧甲州街道へ入る。ここら辺りも当時は、静かな田園風景が広がっていたことだろう。街道沿いの茶店(ドトール)で、遅めの昼食と休憩を取り、また歩いた。昼頃から歩くスピードが鈍ってきている。

上石原に入ると、「近藤勇出生地」といった登り旗があちこちにあった。大河ドラマのポスターや、「勇御前」という定食を出す店まであり、町起しが躍起だ。勇はこの地まで歩いて来ると、幼馴染や顔見知りから声をかけられたりしたのだろう。西光寺というお寺があり、ここに局長の坐像があった。甲陽鎮撫隊として、従軍した勇たち、西光寺はその際に休憩をとった場所なのだそうだ。局長の坐像に向って力強く敬礼する。

府中宿まで歩いて午後四時。ここまでくれば日野まで目と鼻の先、無理すれば行ける距離だが、朝から歩きどおしで疲労もピーク。この行程をもう少し楽しみたいこともあり、一日目はここで終了にして一度帰宅した。

五月二日、二日目

前日終了した、府中より午前9時に再スタート。昨日とは違い曇り空で涼しい朝、歩くのにはちょうどいい。府中宿高札場跡を通過して再び甲州街道を歩く。この辺りに来ると、古い倉のある旧家がいくつかあった。高札場跡もそうだが、こういう古い建造物は勇や総司もこの道を歩きながら目にしていたかもしれない。そう考えると嬉しくなった。

数度の休憩を挟みながら、三時間も歩くと多摩川を越え、日野市へ入った。「ようこそ、新選組のふるさと、日野へ」と書かれた大看板が出迎えてくれる。畑や空き地が広がる中に、木造住宅が点在している。「土方工務店」「土方クリニック」「井之上理髪店」などの看板が目につく。今でも、この地域では、土方姓や井之上姓が多いのだろう。

万願寺というお寺で、「新選組フェスタIN日野」というイベントをやっていたので覗いてみることにした。大河ドラマの影響か、日野市もかなり町起しに力を入れているようだ。中に入ると、大河ドラマの概要やキャスト紹介、セットの一部を展示したドラマ館、京での新選組関連の資料を展示した新選組ゆかり館などがあった。

  

会場中央にはメインステージがあり、大河ドラマの殺陣武術指導を担当する、林邦史朗さんと刀道連盟の方々による居合演武をやっていた。本物の居合など見るのは初めてで、かなり迫力があった。スパスパと斬れる巻藁、人間の身体もこんなに簡単に斬れるのだろうか。そして、居合の姿にすっかりしびれてしまったぼくは、演武が終了する頃には自分も習ってみたい気持ちになっていた。

万願寺を出ると、いよいよ今回の旅のゴール地点、日野宿本陣こと旧佐藤屋敷に向った。 歳三の義兄にして勇とも義兄弟の契りを交わしている、大河ドラマにも登場した佐藤彦五郎の住んでいた屋敷である。ドラマでは、説明がなかったが佐藤屋敷は、江戸時代、参勤交替の大名が宿泊する本陣としての役目も担っており、東京都内に唯一現存する本陣跡なのだそうだ。

彦五郎は日野村の名主であると同時に、天然理心流の門人であり有力なスポンサーでもあった。自宅には稽古のために道場を構えるほどの武術好きで、幼い頃の歳三はそこで彦五郎から剣の手ほどきを受け、勇は師範代として出稽古に足げく通った場所である。

ドラマでは、勇の四代目襲名の野試合では逃げ惑い、婚礼の席では酔いつぶれてと、だらしないヘタレキャラに書かれているが、実際は歳三の奉公先を世話してやったり、試衛館一門が京で壬生浪士組となった後も、送金してやったり、まめに手紙を書いたりと、何かと勇たちの面倒を見て精神的、経済的に新選組を支えた人だ。新選組に取っては、欠かせない人物の一人である。

JR「日野駅」のすぐ近くに、日野宿本陣(旧佐藤屋敷)はあった。近年まで、非公開とされていたが、昨年、日野市重要文化財に指定され、今年は一定期間、中を見学できるようになっている。勇たちが出稽古に通った道場は二度の焼失で残念ながら、現存していないが焼けた道場の廃材を利用して建てられた、表門がぼくを迎えてくれた。

  

中に入ると座敷に通され、他の観光客に混じり地元のガイドさんによる説明を聞きながら、歳三が遊びに来ては昼寝をしていた間、明治天皇がご休息された奥座敷、市村鉄之助を匿った部屋などを見せてもらった。

市村鉄之助は函館まで歳三と共に転戦した少年隊士である。歳三の刀と写真をこの佐藤家に持ちかえったエピソードで有名である。その後は、歳三の遺言にも「この者の身を宜しく頼む」とあり、官軍の目から離すため、三年ほど佐藤家で匿ったのだそうだ。余談ながら、市村のエピソードは、あまりにもドラマチックなため、研究者の中からはしばしば疑問視する声もあがっているが、残された多くの証拠もあり、ぼくは事実であったと信じている。

ガイドさんの説明によると、市村鉄之助、最近では少女漫画の題材に取り上げられ中高生を中心とした少女ファンが多くこの部屋を訪れているそうだ。少年隊士市村を偲んで涙しているとか。 「閉館時間が過ぎてもなかな帰ってくれないいんですよぉ」と、苦笑しておられた。

彼女たちの思いはわかる。ぼくも、勇や歳三と縁深いこの場所へ来て、涙こそ流さないが感無量であった。  その他にも感心したのは、この屋敷の造形の奥深さが真に素晴らしい。欄間に施された透かし彫りなど見事である。ヒュースケンではないが、日本の匠たちの技術は世界有数のものと言えよう。

そんな佐藤家に携わった若い匠の一人に、後の新選組隊士となる大石鍬次郎がいた。
大石鍬次郎、一ツ橋家家臣の子に生まれるが脱藩浪人し、日野宿で大工に弟子入りしていた。ある時、佐藤家の天井の修繕を頼まれ出かけた。奇しくも、このとき(元治元年)新選組局長となった勇が江戸に戻り隊士募集をしていた時期と重なった。鍬次郎、若く膂力にあふれ剣もよくしたことから、彦五郎の強い推薦を受け新選組に入隊する。入隊後は、三条大橋高札事件、茨木司ら殺害、伊東甲子太郎暗殺などで剣を振るい、「人斬り鍬次郎」と恐れられた、新選組が江戸へ敗走後も甲州へ先発しているが、その後なぜか流山で本隊から離脱し、新政府により捕縛。明治三年、坂本竜馬暗殺の嫌疑をかけられ処刑されている。享年32歳。たまたま、その日佐藤家に仕事に訪れたばかりに鍬次郎の運命は大きく変わってしまったようだ。

今回の旅で一番の収穫だったのは、佐藤家十六代目当主にして佐藤彦五郎直系のご子孫にあたる、佐藤福子さんとお会いできたことだ。ぼくに取っては、憧れのスターと出会えたような感激であった。今では数少なくなった新選組関係者の直系の方なので、雑誌などのメディアにたびたび取り上げられ、忙しい方ではあるが、時間があればこちらに来て観光客に彦五郎のエピソードを語って下さっている。先述した大石鍬次郎のエピソードも福子さんからうかがった。

記念撮影にも快く応じてくださり、貴重なお話を語ってくれた。その懐の深さと気さくな人柄はやはり彦五郎の血筋を感じさせる。ぼくが試衛館跡から徒歩でここまで来たのだと告げると、驚いておられた。しかし、彦五郎の日記によれば、朝、牛込柳町から到着して稽古を済ませると、トンボ帰りでその日の夕方には江戸へ帰っていったという記録もあるとか。 江戸人の健脚ぶりには、ほとほと頭が下がる。

福子さん、大河ドラマでの彦五郎のキャラがあまりにも軽薄に書かれているため、二度ほどNHKへ抗議の電話をされたそうだ。ドラマを盛り上げるため、根拠のない創作としての彦五郎のキャラではあるが、ご子孫の方なら不快になるのは無理もない。心中をお察しする。

鳥羽伏見の戦い後、江戸へ敗走してきた新選組は甲陽鎮撫隊として、甲州へ行軍している。このとき、彦五郎も春日隊を組織して共に従軍した。大河ドラマでも後半で、甲陽鎮撫隊は書かれるはずなので、彦五郎の活躍と復権に期待したい。この旅を終える頃、疲労感よりも遥かに大きい満足感で一杯だった。日野へ入ってからの移動もすべて徒歩だったので、二日間での総走行距離は、50キロほどになろうか?

足は棒になり、マメだらけとなっていたが自分の脚で得た充実感は、お金をかけたって得ることのできないものであろう。勇たちが、以前よりも近しい存在に感じられるようになった。

勇も歳三も、総司や源さんも、皆若き日にこの道を歩いていたのだ。そんな姿を想像しながら帰路についた。 おしまい。

文 魚釣梅安


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